人なき院にただひとり
古りたる岩を見て立てば
花木犀は見えねども
冷たき香こそ身にはしめ

 

       ― 芥川龍之介 「劉園」 ―

 

今日は一日雲が美しい日でした。
青い空の高みを白い雲がさまざまに形を変えながら静かに流れていました。
街の本屋へ行く道、何度も歩みを止めて空を見上げてしまいました。

夜、微醺のままに外に出てみると、空の雲は消えて、ただ月だけが皓々と浮かんでいました。
澄みきった静かな秋の夜です。
月明かりだけが影を落とす暗い細い坂の路地を登っていると木犀の香がしました。

冷たき香こそ身にはしめ

秋が来て、忘れていたこの花の香におどろくそのたびに、悔いに似た思いが胸にわいた昔もあったような気がするのですが、それも、今はもう遠いことのようです。

たぶん、その経験の痛切さよりも、むしろ、そのとほきはるけさをこそ、かえって人は、身にしむ秋、と言ったのでございましょう。