母
あゝ麗しい距離(ディスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景・・・
悲しみの彼方、母への
捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
—— 吉田一穂 「海の聖母」 ——
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アルド・チッコリーニというピアニストがいた。
2015年に亡くなった。
90歳。
チッコリーニは五歳の時からマリアという女の人にピアノを習ったんだそうだ。
マリアの教え方は独特だったらしい。
練習曲を弾かせるのではなく、彼に一音一音弾かせて、その音がきれいかどうかを聞く。
「もっといろいろなきれいな音を出して」
とそれだけを教えたそうである。
大人になってからも、夜、眠れないとき、チッコリーニは階下のピアノ室におりていったそうだ。
「心を落ち着けさせるためにピアノを弾きます。
曲ではなく、子供の時のように、ひとつひとつ音を弾いてみて、マリアが
『アルド、今の音はきれいでした。その音は好きよ』
と言ってくれるかどうか、と考えます」
きれいな音。
たった一音であってもきれいな音。
そんな一音を一日一回でも鳴らすことができたら、その日はきっといい日なのだ。
そして、その音がきれいな音であるかどうかを尋ねることができる人が、心の中に、一人でもいることはなんていいことなんだろう。