養ひ飼ふものには、馬・牛。
繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがはせん。
犬は、守り防くつとめ、人にもまさりたれば、必ずあるべし。
されど、家ごとにあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなん。
その外の鳥、獣、すべて用なきものなり。
走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥はつばさを切り、籠(こ)に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁へ、止む時なし。
その思ひ、わが身にあたりて忍びがたくは、心あらん人、これを楽しまんや。
生(しやう)を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂(けつ・ちう)が心なり。
王子猷(わうしいう)が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遥(せうえう)の友としき。
捕へ苦しめたるにあらず。

「およそ、珍しき禽(とり)、あやしき獣、国に育(やしな)はず」
とこそ、文にも侍るなれ。

 

養い飼うものは、牛と馬である。
これを、つなぎ留めて苦しめるのはこころ痛むことではあるが、牛や馬はわれわれの暮らしになくてはならないものであるから、どうしようもない。
犬は、家を守り賊を防ぐはたらきが、人にもまさるものなので、必ず家で飼わねばならない。
けれども、犬はどの家にもいるものなので、わざわざ求めて飼うほどのものではないだろう。
さて、それ以外の鳥や獣は、すべて人の暮らしに必要のないものである。
走る獣は、檻に閉じ込められ、鎖につながれ、飛ぶ鳥は、翼の腱を切られ、籠に入れられて、鳥は自由に飛べた空の雲を恋い、獣は思うままに駆けた野や山を思って心ふさぐこと、止む時がない。
その思いを、自分の身にひきあてて考えてみたとき、それが堪えがたいものと思うような心ある人は、鳥や獣の自由を奪ってこれを飼うことを楽しむことができるだろうか。
生き物を苦しむようすを見てそれを喜ぶ心は、暴君として知られる夏の桀王や殷の紂王と同じものだ。
王子猷という人の鳥を愛しかたは、鳥たちが林の中に楽しげにしているのを、そぞろ歩きの友としたのだった。
捕まえて、籠に入れ苦しめたのではない。

「およそ、珍しい鳥や、見慣れない獣は、国で養うことはしない」
と、「書経」にも書かれております。

 

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ある生徒の話によれば、今時のペットショップには、蛇の餌として、小さな鼠の冷凍したのを袋に入れて売っているのだそうです。
蛙や亀、あるいは蜥蜴の餌として、生きたコオロギを量り売りで売っているのだそうです。

それは、おまえが猫にキャットフードをやり、煮干しをやるのと同じじゃないか、という意見もおありでしょうが、やっぱり何かちがう気がします。
そう言う私だって、もし仮に蛇や蛙を飼うことにもなれば、そのような餌を買い求めるに決まっています。
けれども、それはやはりコワイことのような気がします。
それは

生(しやう)を苦しめて目を喜ばしむる

ことの最たることのように思えるからです。

 

餌になるというコオロギのことを考えていたら、こんな詩を思い出しました。
昔、小学校の国語の教科書に載っていた詩です。

 

  虫けら

              大関松三郎

一くわ
どっしんとおろして ひっくりかえした土の中から
もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
土の中にかくれていて
あんきにくらしていた虫けらが
おれの一くわで たちまち大さわぎだ
おまえは くそ虫といわれ
おまえは みみずといわれ
おまえは へっこき虫といわれ
おまえは げじげじといわれ
おまえは ありごといわれ
おまえらは 虫けらといわれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは おまえたちの 大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える

だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや

 

子ども心に、生きるのはせつないという思いがしたことを覚えています。

いづれにしても、

およそ、珍しき禽、あやしき獣、「家」に育はず!

と思うことです。