・・・・もう一度やり直す?
しかしそれはなんにもなるまい。
やり直したところで、またこうなってしまうだろう――——いっさいは、今まで起こって来た通りにまたなってしまうだろう。
—— トオマス・マン 『トニオ・クレエゲル』——
先週の毎日新聞の書評欄に
『もっと早く言ってよ。 50代の私から20代の私に伝えたいこと』 一田憲子著
という本が紹介されていた。
もっとも、これは 「COVER DESIGN」 という欄なので論評は表紙の意匠についてだけで、この本がどんな内容がなのかはわからない。
とはいえ、これはなんたる副題でありますか!
《50代の私から20代の私に伝えたいこと》
うーん、この人は、20代の自分が、50代かの自分からのアドバイスならそれを素直に受け取ると本気で思っているのであろうか。
まあ、そのような人の書いた本は読むに値しないだろう、と私は判断するのだが、あなたたちはどうであろうか。
昔、真くんがくれたSF小説(題名なんだっけ?真くんあとで教えて)に、宇宙船に乗っていて死にそうになった主人公が同乗者にこんなセリフを言う場面があって大笑いしたことがあった。
「ああ、こんな目にあうんなら、ちゃんとおふくろの言うことを聞いとけばよかった!」
「おふくろはなんって言ったんだい?」
「だから、それを聞いてなかったんだよ!」
あなたたちだって笑うにきまっている。
言うまでもないが、僕たちはみんな若いとき、大人たちからいやになるほどの忠告を受けてきたのだ。
そして、今から思えば、それらの忠告はおおむね正しかったのだ。
でもね。
でもね、僕たちはそんなものちっとも本気にしなかった。
というより、この小説の主人公のように、そんなもの、聞いてもいなかった。
「馬耳東風」とか「馬の耳に念仏」という言葉の中にある「馬の耳」とは《若いやつの耳》ということだ。
大人の忠告など、どうして若者の耳に入ろう!
あやつらの耳はモスキート音が聞き分けられるのに、大人の声は聞こえないようにできているのだ。
彼らが聞いているのは、そして、若かった僕たちが耳を傾けていたのは、自分の内なるわけのわからぬ憧れと、自分と同じように経験のない同世代の仲間たちの声だ。
そうやって僕たちはたくさんのことを失敗してきた。
そうやって僕たちはたくさんのことに傷ついてきた。
けれども、僕たちは自分の人生がそんな失敗や傷跡のない人生だったらよかったのにと思うだろうか?
そんなことはないだろうと思う。
なぜなら、僕たちはそんな失敗や傷こそが今の自分をつくっていることを知っているからだ。
もちろん、取り返しのつかない悔いとして一生残る傷だってある。
けれどもそれも含めての自分の人生なのだ。
今の若者たちもまた、僕たちと同じように失敗し、僕たちと同じように傷つき、そして泣くだろう。
なぜなら僕たちがそうであったように、人には他人の言葉からではなく自分の痛みからしか学べないことがあるからだ。
その痛みをどう受け取るかは、もちろん人それぞれなのだが。
いつの間にやらあなたたちの多くが五十代の坂にさしかかり始めた。
そんなあなたたちが《50代の私から20代の私に伝えたいこと》なんてきっと一つしかないはずだ。
がんばってたじゃないか!
そうやって自分の人生を肯定してあげることが、二十代の自分への一番のメッセージだ。