海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
寺山修司
キコユ君の成績が、私のところへ来たとたん100点以上も上がったというので、シュンちゃんが喜んでLineにそのことを載せて、みんな盛り上がっていたようだ。
けれども、それが、テラニシの手腕によるものだ、というのは、もちろん全くありえないことであることはみんなよく知っていると思う。
なぜなら、あなたがた自身がみなテラニシの授業を受けてきたからである。
考えてもみよ!
あんな「無駄話ばかりの授業」で学校の成績が上がるわけがない。
要はキコユ君が頑張ったのである。
西洋のことわざに
馬を水辺まで連れていくことはできても、馬に水を飲ますことはできない。
というのがある。
要は、喉が渇いていなければ、馬だって水は飲まないのだ。
キコユ君は「喉」が渇いていた。
そろそろいい成績を取りたいと思っていた。
それだけの話である。
そこに手慣れた馬喰(ばくろう)であるじいさんがたまたまいた、というだけの話である。
だいたい、いい年の者が身内のホメ言葉は真に受けてはいけないことになっている。
そうやっても許されるのは、まあ、高校生ぐらいまでだろうか。
彼らは図に乗ってこそ力を発揮する。
年寄りになって図に乗る者は、お調子者と呼ばれる。
年寄りが本気にしなければならないの身内の非難だ。
そして、たぶんもしあったとして、敵からの賞賛は本気にしていいのだと思う。
幸い私には《身内》からの非難をしてくれる、友人、そしてかつての生徒たちがたくさんいてくれる。
引用の短歌は、今日の毎日の夕刊に載っていたものだ。
久々に読んだが、やっぱり素敵な歌だ。
忘れていた遠い風景をおもいだすような気持がした。
緑の里山に囲まれた田舎道。
その両側には、稲があおい穂を出し始めている。
そこに麦藁帽の少年と白い服の少女が向かい合って立っている。
そんな光景を、どこか遠く遠く見ているような・・・。
そしてその少年は、海を知らない少女に両手をひろげて、こんなにも大きいんだぜと、海の大きさを教えようとしている・・・。
はて、なぜいまさら、この短歌に私の心は動いたのだろう?
もちろん、そうさせたものはこの歌が喚起する清新で鮮やかなイメージそのものの力なのだ。
けれども、もう一つ、私が思い出したことがある。
あの「少年」は私なのだ―――そう言ったら笑うだろうか。
本当の「海」の広さを知らない少女、本当の「海」の青さを知らない少年たちの前で、私はいつもその広さ、青さを教えようと教えようとしてきたのだ。
少女たち、そして少年たちが知っている世界よりも、もっともっと広いもの、もっともっと美しいものが世の中にあることを、バカみたいに両手をひろげて教えようとしてきたのだ。
それは今でも変わっていない。
キコユ君に教えたいのも、やっぱりそんな「海」のことなのだ。
そんなことを思い出したのだ。
というわけで、《凱風通信》の再開である。