誰(たれ)をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに
藤原興風
藤原興風(ふじわらのおきかぜ)。
藤原氏、といっても、もちろん誰でも身分が高いわけではない。
この人の官位は低かった。
さて、歌ですが、これは、お爺さんの歌です。
「誰をかも 知るひとにせむ」
「いったい誰を、《知る人》=友だちにしたらいいというのか。
(もう誰も友だちなんていないじゃあないか!)」
つまり、昔の友人たちがみんな亡くなって、気が付いたら自分一人になってしまった、と言っているんです。
「高砂の 松も昔の 友ならなくに」。
「ならなくに」は河原左大臣の「みちのくの しのぶもぢずり」の歌でも出てきましたね。
「・・・ではないのに」でした。
ですから、
《高砂の松も私の友だちじゃないのに》
と言っているんです。
高砂は地名です。
あなたは「高砂やぁ」という謡(うたい)を聞いたことはないかしら?
映画やドラマで、昔の結婚式の場面となると必ず歌われる。
高砂や
この浦舟に 帆をあげて
月もろともに 出で潮の
波の淡路の 島影や・・・
この「高砂」という世阿弥が作った謡曲の中にも、実は興風さんのこの歌が引用されているのですが、ここの松は長寿で有名なのです。
なにしろ、その謡曲の文句に従えば、
この松は、千年に一度花が咲き、それを十回繰り返す、
ということになっている。
そんな、長生きの高砂の松でさえ、昔からの自分の友だちではない、と興風さんは歌っているのです。
「たれをかも 知るひとにせむ」
と二句目で言い切り、
「高砂の 松も昔の 友ならなくに」
と倒置法でそれを修飾するこの歌の調べは、昔からの友を皆なくし、独り残された老年の孤独、孤愁を歌ってピンと張って高い。
私を含め五人いる金沢の友人たちのうち、遠くない将来、みんなを先に送った後で、ひとり残された誰かが、ふと、この歌をしみじみ思い出す時が、いつか来るのでしょうね。
誰を友と 呼べばいいんだ
高砂の あの松さえも 友じゃないのに