遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱イ、唐の禄山、これらは、皆旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の憂ふるところを知らざつしかば、久しからずして亡じにし者どもなり。

 

― 平家物語 ―

 

「鹿を謂いて馬と為す」

あるいは

「鹿を馬」

ということばがある。
今日引用したのは平家物語の冒頭、有名な「祇園精舎の鐘の声」の一節に続く部分だが、そこに、中国における悪臣の代表として、その名を第一に掲げられている(もっとも、それは、時代が一番古いせいであるが)「秦の趙高」にまつわる故事から来た言葉である。

『史記』「始皇本紀」によれば、こういう話である。

始皇帝が死んだ後、丞相(総理大臣)となって幼い二世皇帝を擁立した宦官の趙高は、他の群臣の中に自分の言うことを聴かない者がいることを恐れて、まずそれを試すために、八月のある日、二世皇帝に、鹿を献上しておいて
「これは馬でございます」
と言った。
二世は
「丞相はバカだなあ、鹿を指して馬と言っているよ」
と笑いながら、左右の大臣に同意を求めると、周りの大臣たちは

或いは黙し、或いは馬と言い、以て趙高に阿(おもね)り順(したが)う。

という状態であった。
そして、中に
「それはたしかに鹿でございます」
と答えた者がいると、趙高はそのような者たちを、法に違反しているとして処刑したので、その後、群臣、皆、趙高を恐れ、彼の言葉に逆らう者はいなくなっってしまった、というのである。

さて、そのようにして誰一人真実を語る者がいなくなった秦は、ほどもなく滅びてしまう。

昔この話を読んだとき、
「いくらなんでも大臣たちが鹿を馬というようなそんなバカな話があるものか」
と子どもごころに思ったものだが、いやいやこれはおとぎ話でもなんでもなかった。
「史記」はれっきとした歴史の本であった。

思えば、悪しき権力者が行うことは、二千年の昔も今も何も変わってはいない。
彼らがまず行うことは、真実を語る者ではなく、自分におもねる者のみが出世する機構を作り上げようとすることなのだ。

たとえば、大統領に就任以来現在までトランプが行なってきたことのすべてはこれであったのだと思えば得心がゆく。

だが、まだ、アメリカはいい。
三権はたしかに分立し、ジャーナリズムも死んではいない。

一方、オリンピック誘致の興奮の中で
「原発はアンダー・コントロールされている」
という首相の大嘘を黙過したこの国は、やがて秘密保護法を成立させ、安保法案を強行採決させ、今度は共謀罪までもつくり上げようとしている。

そんなこの国の今朝の新聞に、例の「そもそも」には「基本的に」という意味が辞書にあると国会で述べた安倍首相のことばを追認する閣議決定がなされたとかかれていた。

「そもそも」を指して「基本的」と為す

とはまさに現代の「鹿を馬」ではないか。

このことは、もちろん大問題だ。
けれども、もっと大きな問題は、われらが総理大臣が

「私は辞書を引いてみたんですが」

と、すぐにもばれるウソを国会の場で平気でつける人間であることであり、それをとがめることもせぬこの国の人々である。

もう一度書けば、鹿を馬と言いくるめることを黙認した秦はほどもなく亡びたのである。