「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる」
と人の言ひけるに、
「山ならねども、これらにも、猫の経(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」
と言ふ者ありけるを、何(なに)阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)の辺にありけるが、聞きて、ひとり歩かん身は、心すべきことにこそ、と思ひけるころしも、ある所にて夜ふくるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端(はた)にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。
肝心(きもこころ)も失せて、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へころび入りて、
「助けよや、猫また、よやよや」
と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。
「こは如何に」
とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など懐にもちたりけるも、水に入りぬ。
希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主と知りて、飛び付きたりけるとぞ。
「奥山に猫またというものがいて、人を食うそうな」
と、誰かが言うと、
「山でなくても、ここいらあたりでも、猫で年を取ったものは、猫またになって、人を取って食うということがあるということですぞ」
と言う者もあるのを、なんとか阿弥陀仏、とかいうような名前の、連歌をやっている法師が、行願寺あたりに住んでいたのだが、それを聞いて、一人歩きの多い自分みたいな者は気をつけねば、と思っていたちょうどそのころ、あるところで、夜更けまで連歌をして、たった一人帰って来たところ、小川のほとりで、噂に聞いていた猫またが、まさに自分を狙って足もとにつーっと寄って来て、いきなり飛びついたと思う間もなく、頸のあたりに食いつこうとした。
びっくり仰天して、防ごうとする力もなく、腰が抜けてそのまま小川に転がり落ちて、
「助けてくれええ、猫まただあ、おーい、おーい」
と叫んだので、家々から出てきた人々が、松明(たいまつ)などをともして走り寄ってみれば、近所の顔見知りの僧である。
「これはどうしたことだ」
と、川の中から抱き起したところ、連歌大会の景品で取った扇や小箱などを懐に入れていたのが、水に濡れてしまっていた。
法師は九死に一生を得たというようすで、這うように家に入ったそうな。
ところで、法師が猫またと思ったものは、実は飼っていた犬が、暗がりでも主人とわかって飛びついたのだということだ。
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今から三十年ほども昔、中学の教科書に出ていたこの章段を習ったあと、俊ちゃんたちは
「猫また、よやよや」
と言って、小又君をからかっていたものでした。
中学生などというものは、思えば、たわいないものですなあ。
ね、コマタ君。