「牛を売る者あり。
買う人、明日その値をやりて牛をとらんといふ。
夜の間に牛死ぬ。
買はんとする人に利あり。
売らんとする人に損あり」
と語る人あり。

これを聞きて、かたへなる者のいはく、
「牛の主(ぬし)、まことに損ありといへども、また大きなる利あり。
その故は、生(しょう)あるもの、死の近きことを知らざる事、牛すでにしかなり。
人またおなじ。
はからざるに牛は死し、はからざるに主は存(ぞん)ぜり。
一日の命、万金よりも重し。
牛の値、鵞毛(がもう)よりも軽し。
万金を得て一銭を失はん人、損ありといふべからず」
といふに、皆人嘲りて、
「その理(ことはり)は、牛の主に限るべからず」
といふ。
またいはく、
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。
存命の喜び、日々楽しまざらんや。
愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづかはしく外(ほか)の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危ふく他の財をむさぼるには、志満つ事なし。
生ける間、生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。
人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。
死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。
もしまた、生死(しやうじ)の相にあづからずといはば、実(まこと)の理を得たりといふべし」
といふに、人、いよいよ嘲る。

「牛を売ろうと思っている人がいたんだ。
うまく話がまとまって、買手の方は、明日その代金を持ってくるから引き換えにその牛を引き取ろうということになった。
ところが、その夜のうちに牛は死んでしまったんだ。
こういう場合は、買おうと思っていた人が得をして、売ろうと思っていた人は損をしたってことになるよな」
と語る人がいた。

これを聞いて、そばにいた者が言う事には、
「牛の持ち主はたしかに損をしたとは言えるけれど、一方では大きな得もしたのだ。
なぜかというと、だいたい命のあるものが、死が近くにあることを知らないのは、牛が現にそうだし、人もまた同じことなのだ。
死ぬなどということを思いもかけてもいないうちに牛は死んでしまい、、一方、同じように死ぬなんてことを考えていなかったけれど、牛の持主の方は、たまたま生きながらえただけなのだ。
一日の命というのは、万円億円よりも大切なものだ。
それに比べれば、牛の値段なんてものはガチョウの羽根よりも軽い。
そんなふうに、万金を得て一銭を失った人を、損をした言うのは適当ではないだろう」
と言ったところ、そこにいた人はみんな、その言葉をバカにして、、
「命を生きながらえているのは、なにもその牛の持主だけのことではないだろう。(だから、その人が得をしたなんていうのはバカバカしいことだ)」
と言った。

すると、さっきの男がまた言うことには、
「だからこそ、もし私たちが死を憎むのならば、生を愛さなければならないんですよ。
生きていることの喜びを、日々楽しまないでいていいものでしょうか。
愚かな人は、この「生きていることの楽しさ」を忘れて、わざわざ外の楽しみを求め、この「今日一日を生きている」というたからものを忘れて、分別もなくほかのたからをむやみに欲しがっていますが、それでは、求める心はけっして満たされることはありません。
生きている間、この「生きていること」を楽しまないで、死の間際になって死を恐れるとすれば、それは、「死を憎むのなら生を愛すべきだ」という理屈に合わなくなってしまいます。
人が皆、その日その日の生を楽しまないのは、実は死を恐れていないからなのです。
というより、それは死を恐れていないのではなく、死がいつもそばにあることを忘れているからなのです。
もっとも、生も死も、言わば現象世界のことで、そんなものに何の区別もないという方がおられるなら、その人はまことの仏の道を極めた人だというべきなんでしょう」
といったところ、人々は「何をまた寝ぼけたことを言っておるんじゃあ」とますますバカにした。

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この話、訳の方は適宜、過去形で書いてみたけれど、本文には、どこにも過去の助動詞(「き」「けり」が使われていない。
皆、現在形で語られている。
それを根拠に言うべきことではないのかもしれないが、ひょっとして、これは、実際にあった話ではなく、兼好が創作した架空の会話なのではないかしら。

仮にそうだとして、人々の嘲りの中、自説を述べる「かたへなる人」の言葉こそ、兼好の本音なのであろう。

存命の喜び、日々楽しまざらんや

たしかにそうだ。
けれど、朝目覚めたとき、いつもそういう思いで一日を生きることはむずかしい。