OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

       ぼくら 湖であり樹木であり

       芝生の上の木洩れ日であり

       木漏れ日のおどるおまえの髪の段丘である

       ぼくら

 

             ― 大岡信 「春のために」―

 

 

昼下がりの遊歩道を行くと、木洩れ日が地面にゆれていた。
私が立ち止まると、木々の葉を通して届く光は、風が吹くたびにたゆたいながら、その輪郭を、あるいは濃く、あるいは淡くした。

かつて、ギリシアの哲学者は、私たちが見ることができるものは、物そのものではなく、洞窟の壁に映った物の影に過ぎないと語った。
私たちにとって、真実とは、そのような影を通して想像するしかないものなのだと。
そして、ノスタルジア、もまた、そういうものだと。

かつて、自分のかたわらに立つ少女の髪におどる木洩れ日を見た記憶などありもしなかった十代の私が、この詩を初めて読んだとき、あたかも、たしかにそれが自分にもあったことのように思ったのはなぜなのだろう。
私は、記憶の先取りをしていたのだろうか。
しかし、「記憶の先取り」もなにも、それからあとも、私がこのような《ぼくら》であったことはなかったのだ。
にもかかわらず、なぜ私は、今日また、この詩句を思い出すのだろう。
そして、なぜ、この詩句を思い出したことで、すこし頬がゆるんでしまうのだろう。

なつかしさは記憶から生じるのだろうか。
それとも、もっと深くもっと遠いところから呼びかけてくるものなのだろうか。

地球からあんなにも遠く離れた冥王星にもハートがあることが伝えられた夏、風は木々をわたり、木漏れ日は地面に揺れる。