今日 われ後(うしろ)の松山に入りて
蜩のすがたを見たり。

われ、昔、
この虫のかたちを知らず、

ただ遠くそが音(ね)を聞きて
さびしさに涙ながしき。

今われ年たけて、人生(ひとのよ)の寂しさの
まことの相を知れるとき、
真昼松山に入りて、明らかに
この虫の姿を見たり。

 

 

 

― 西条八十 「蜩」 ―

 

金沢の家の机の引き出しを開けると死んだ蜩が一頭入っている。
体長は4センチほどだろうか、小指ほどのほっそりとした体に茶色がかった透明な翅をしている。
三年前、母の命日の墓参りの帰り路、大乗寺の境内の苔の上に死んでいたのを拾ってきたのだ。
セミ取りに夢中だった小学生のころも、昆虫採集に明け暮れていた高校生のころも、私はヒグラシを捕まえたことはなかった。
だから、それは、私が手にした、たった一頭の蜩だ。

私がはたして、そのとき、

人生(ひとのよ)の寂しさの まことの相

を知っていたのかどうかはわからないし、今でさえ、そうなのかどうかも知らない。
ただ、そのとき苔の上に見つけたその虫のほっそりとした姿は、あの鳴き声のさびしいピアニシモにふさわしいはかなげな優雅さを持っていて、思わず拾い上げずにはいられなかったのだ。
その日、高い翌檜(あすなろ)の木が立ち並ぶ大乗寺の境内は、昼間から、カナカナカナカナという蜩の声がしていた。
ご存知のように、蜩というセミは何匹で鳴いていても、その声はさびしく澄んでいる。

思えば、この習志野に住んで、長く、蜩の声を聞かない。
そのことで、私は、ひょっとしたら、とるに足らないように見えながらけれども人生にとって大切な何か、をなくしてしまっているのかもしれないと思ったりする。

生きていく人の世に、さびしさがなかったとしたら、それはどんなにさびしいことだろう。