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秋になると
果物はなにもかもわすれてしまつて
うつとりと実つてゆくらしい

 

― 八木重吉 「果物」 ―

 

 

今朝の朝日新聞の「折々のことば」の欄に鷲田清一氏がこの詩を載せていた。

 

ところで、全然話は飛ぶようだが、ニ十代のころ、ぼくはいつも菊池君と飲んでいた。
それは、彼が結婚してからも一向変わらず、彼の奥さんであるちずちゃんが第一子を身ごもってずいぶんお腹が大きくなってからでさえ、ぼくは三日とあけず、彼の新婚の家に上がり込んでは、ちずちゃんの作ってくれる手料理で菊池君と酒を飲んでいた。
今から思えば、とんでもない野郎もあったものだが、そして、今の私ならおおいに厳しく若いテラニシに意見してやるところだが、ものを知らない、というか、常識がない、というか、ともかくバカというものはこわいもので、ともかくそんなふうなのがニ十代のぼくだった。
ところで、ぼくは、当然ながら、それまで、だんだん大きくなってゆくおかあさんのお腹、などというものを目近に見たことなどなかったので、たいそう不思議だったし、またその不思議がたいそうおもしろかった。
そんなある日のこと、なにやら満ち足りたようすで、お腹に手を当ててぺたりと畳にすわっている彼女をなにげなく見ていたとき、どういうわけだか、不意にこの詩が頭に浮かんできて、
「ああ、あれって女の人のことを歌った詩だったんだな!」
と思ったことがある。

もちろん、この詩はまちがいなく「果物」のことを歌った詩なんだけれど、それ以来、ぼくは、いまでもこの詩を読むと、半分くらいは、この詩がお腹の大きな妊婦のことを歌ったもののように思えるのだ。

今朝、久しぶりのこの詩を目にして、若かったちずちゃんや菊池君や、あるいはそこにいた自分のことなんかを思い出して、ずいぶんなつかしい気がした。

それにしても、あのとき、なんて幸せそうな顔をちずちゃんはしていたことだろう!
あれはまちがいなく

なにもかもわすれてしまつて
うつとりと実つてゆく

顔だった。