是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ明け暮れ念仏して、安らかに世を過ぐす有様、いとあらまほし。
是法法師は、浄土宗の僧として誰にも負けぬ学識を持っていながら、自分の学識をひけらかすでもなく、ただ、明け暮れ念仏を唱えて、心安らかに日々を過ごしているようすは、あのようになりたいものだと思わせます。
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一文ですね。
何を書きましょうか。
ここに出てくる是法法師というお坊さんは、浄土宗の人だそうですが、浄土宗を開いた法然さんについて、そのお弟子だった親鸞さんが、自分の弟子に向けて書いた手紙の中でこんなことを書いています。
故法然上人は
「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」
と候しことを、たしかにうけたまはり候しうへに、
ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、
「往生必定すべし」
とて、えませたまひしを、みまいらせ候き。
さかさかしきひとのまいりたるをば、
「往生はいかヾあらんずらん」
とたしかにうけたまわりき。
≪亡くなられた法然上人は、
「浄土宗というのは愚者になって往生するのだ」
とおっしゃっておられましたのを、たしかにおききいたしました。
そして、何も道理もわからぬやうな字も読めぬ人たちがやって来たのをご覧になられるたびに
「この人たちは必ず極楽に往生できるにちがいない」
と微笑まれていたのを、見申し上げました。
また、いかにもものを知ったふうな人がやって参ると
「今来ていた人ははたして往生できるかどうか」
とおっしゃっていたのをたしかにお聞きしました。≫
是法法師というお坊さんも、そんな祖師の心を身に体(たい)していたんでしょうな。
それを抜きにしても、その人の「学匠を立てない」(自分の学識をひけらかさない)態度は、見ていて気持ちのいいものだったにちがいありません。
などと、一行の文に、あれこれ書いて見せるのは、なにやらいかにも、ありもしない「学匠を立てている」ようで、いとかたはらいたきことでござる。
兼好さんには、まちがいなく、
かた田舎よりさし出でたる人こそ、よろずの道に心得たるよしのさしいらへはすれ。
(第七十五段)
と言われてしまいますな。