人におくれて四十九日の仏事に、ある聖を請(しゃう)じ侍りしに、説法いみじくて、みな人涙を流しけり。
導師帰りて後、聴聞の人ども、
「いつよりも、ことに今日は尊く覚え侍る」
と感じ合へりし返事(かへりごと)に、ある者のいはく、
「何とも候へ、あれほど唐の狗(いぬ)に似候ひなん上は」
と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。
さる導師のほめやうやはあるべき。
また、
「人に酒すすむるとて、おのれまずたべて、人にしひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たることなり。
二方(ふたかた)に刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづわが頸を斬る故に、人をば、え斬らぬなり。
おのれまづ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ」
と申しき。
剣にて斬り試みたりけるにや。
いとをかしかりき。
人に先立たれた四十九日の法要に、ある僧を招きましたところ、その説法がすばらしく、そこにいた人たちは皆涙を流して感激しておりました。
そして、その僧が帰った後、説法を聞いていた人たちが、
「いつもよりも、今日の説法はことにありがたく思えましたなあ」
などと、口々に言い合っていると、ある人が
「なんと言っても、あれほど高麗犬に似た厳しいお顔ですものねえ、ありがたさもひとしおですな」
と言ったので、すばらしい説法だったという感銘も薄れて、思わず笑ってしまった。
そんな導師のほめ方ってあるものだろうか。
また、誰かが
「人に酒を勧める時、まず自分が飲んで、人に無理強いに勧めようとするのは、剣で人を斬ろうとするのと同じことなんだよ。
剣というものはさあ、両側に刃が付いているだろ、だから、振り上げると、勢いでまず自分の頸を斬ってしまうから、人を斬る事ができないのだ。
自分が先に飲んで酔ってしまったら、相手のひとはまさか飲んだりできなでしょ」
なんてことを言った事があります。
この人は剣で斬ることをやってみたのでしょうかねえ。
ずいぶんおかしかった。
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酒を勧めることと両刃の剣の関係の話は、そもそもが、なんだか酔っぱらいのわけのわからん理屈のようで、あまりよくわからんのですが、仏事の話は、よくわかります。
というのも、私の母が、法事が終わると、坊さんの、容貌やらしぐさやら、経の読み方やらその声やらについてさまざまの批評をしていたからです。
私は一向そんなことに気づきもしないことをちゃんと見ている。
そして、それを口に出す。
まあ、それは私の母に限ったことではなく、おばさんは、というか、女の人はたいがいそうです。
どんな場面でもそこにいる人たちへの観察を怠らない。
女の人というのは、そもそもがそういう素質がおありなんでしょうが、おばさんになればなるほど、厳粛、とか、権威、とかいったものから、すぐに自由になれるらしい。
それで、どんな場面でも普段の目を忘れないんでしょうな。
そして、それを口に出す。
おかげで、私らは、おおいに笑ってしまうわけです。
まあ、なるみさんたちなんかも、いよいよその域に達してきたようで、実に頼もしいことです。