顔回は、志、人に労を施さじとなり。
すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。
また、いとけなき子をすかし、おどし、言ひはづかしめて、興ずる事あり。
おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしく、あさましき思ひ、まことに切なるべし。
これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。

おとなしき人の、喜び、怒り、悲しび、楽しぶも、みな虚妄(こまう)なれども、誰か実有(じつう)の相に著(ぢやく)せざる。
身をやぶるよりも、心をいたましむるは、人をそこなふ事なほ甚だし。
病を受くる事も、多くは心より受く。
外(ほか)より来たる病はすくなし。
薬を飲みて汗を求むるには、験(しるし)なきことあれども、一旦恥ぢ恐るることあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。
凌雲(りよううん)の額を書きて白頭の人となりし例(ためし)なきにあらず。

 

孔子の一番弟子の顔回は、師にその志を聞かれた際、ほかの人に労苦をかけさせないことです、と答えたそうだ。
何事においても、人を苦しめたり、残酷に扱ったりすることはしてはいけないし、相手が身分の賤しい人たちだからといって、その願い求める思いを奪ったりしてはいけない。
また、幼い子供をだましたり、おどしたり、からかったりして、おもしろがる者もいるが、これもいけないことだ。
大人は、ほんとうの事ではないので、そんなことをしても、たいしたことでもないと思っているが、幼い心には、おどされれば、身にしみて恐ろしいし、また、からかわれれば、恥ずかしくなさけない思いをいだくことは、とても痛切なものであるはずだ。
そのような幼い者につらい思いをさせておもしろがることは、慈悲の心ではない。

喜びや、怒り、あるいは悲しみや楽しみといったものは、実は人が生きている迷いから生ずる、心のうちの現象に過ぎないものではあるのだが、大人だからといって、生きている限り、これら喜怒哀楽の思いが実際に存在して有るものだと思わない者がいるだろうか。
身を傷つけ、損なうよりも、その心を悩ませることのほうが、人を損なうことはずっと大きいのだ。
病も、多くは心から生じるのだ。
外からやってきて罹る病気は少ない。
病気になったとき、薬を飲んで汗をかこうとしても、薬の効果がなく汗が出ないことがあったりするが、ひとたび、恥ずかしい思いをしたり、恐ろしい思いを抱けば、必ず汗が流れてくるのは、心のはたらきによるものだということを知らなければならない。
昔、中国で、《凌雲観》という名の高楼を再建した際、誤まって額の字を書かずに打ちつけてしまったので、高さ70メートルを超える場所で、籠につるされて字を書いたその書家の頭髪は、書き終えた時、真っ白になってしまっていたという例さえある。

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私はずっと、兼好さんというのは、なんだかエラそうな、ちょっと偏屈な人なんだと思っていた。
けれども、ここまで章段を訳してきて、だんだん、そうではないのだとわかって来た。
この人は《無常》ということをほんとうにわかっていた人なのだ。
仏教の教理もほんとうに心得ていた人だった。
そのことが、なぜだかわからないけれど、この章段でストンと私の腑に落ちてしまった。

もっと早くわかれよ、ってところかもしれないけれど、ともかくそうだった。