昼間は、鳥はあてどもなく飛んでいるように見えるが、夕方はいつも一つの方向に帰っていくように思われる。
― 「カミュの手帖」 (大久保敏彦訳)―
中間テストが近いというので、二年生が、「枕草子」の音読をしている。
秋は夕暮れ。
夕日のさして
山の端いと近うなりたるに、
烏の寝どころへ行くとて、
三つ四つ、
二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。
教科書に打たれた読点ごとに区切りながら、読んでいる。
聞きながら、私は、ふと、
なるほどそうか
と思う。
このあいだ読んでいたカミュの言葉を思い出したのだ。
そうか、あのカラスたちもまた、昼間は「あてどもなく飛んで」いたのか、と思ったのだ。
話は飛ぶが、せんだって、愛ちゃんのおじいさんが亡くなられたそうだ。
どんな人だったのか、わたしは知らない。
70歳だったというから、むろんすでに、人生の夕方の思いはあっただろう。
けれども、はたして、彼は、その夕暮れ、帰るべき方を知っていたのだろうか、とふと思う。
なにも、愛ちゃんのおじいさんだけの話ではない。
私の年代の者たちは、すでに人生の日が傾きかけて来ているのだが、はてさて、わたしたちはこれから帰るべき場所を知っているのだろうか。
かつて、人々は、あるいは浄土を思い、あるいは天国を願い、そこに死後に行くべき世界を見ていた。
別に、それがいいことだった、と言いたいわけではない。
ただ、皆が、帰りゆく場所を共有していた時代が、かつてはあったということだ。
そう思って読めば
烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。
という言葉もちがって見えてきたりする。
もちろん、清少納言にそんな含意はなかったにちがいないが・・・。
さて、21世紀。
よくもあしくも、人々は、生きている限りそんな「寝どころ」なんて気にもかけず、いつまでも昼間のように「あてどもなく」飛び続けて、そのことに、なんの不都合があるわけではないと思っている時代だ。
すくなくとも、これは、兼好の時代とはずいぶんちがうなあ。