物に争はず、おのれをまげて人にしたがひ、我が身を後(のち)にして、人を先にするにはしかず。

よろづの遊びにも、勝負(かちまけ)を好む人は、勝ちて興あらんためなり。
おのれが芸まさりたることを喜ぶ。
されば、、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり。
我負けて人を喜ばしめんと思はば、さらに遊びの興なかるべし。
人に本意なく思はせて、わが心を慰まん事、徳にそむけり。
むつましき中に戯(たはぶ)るるも、人をはかりあざむきて、おのれが智のまさりたる事を興とす。
これまた礼にあらず。
されば、はじめ興宴より起りて、長き恨みを結ぶたぐひ多し。
これみな、争ひを好む失なり。

人にまさらん事を思はば、ただ学問して、その智を人にまさらんと思ふべし。
道を学ぶとならば、善を伐(ほこ)らず、ともがらに争ふべからずといふ事を知るべき故なり。
大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ学問の力なり。

 

物事において人と争わず、自分を抑えて人に従い、自分を後にして、人を立ててやるにこしたことはない。

どんな遊びにおいても、勝負が好きな人というのは、勝っていい気分になりたいのである。
そういう人は、自分の腕前が人にまさっていることを喜ぶのだ。
だとすれば、負けたときイヤな気分になることも、またわかりきったことだ。
自分が負けて人を喜ばせたとなれば、まったく遊びのおもしろさというものもないだろう。
だいたい、相手に残念な思いをさせて、自分の心が晴れ晴れするなんていうのは、人の行なうべき道を外れている。
親しい仲間内で遊ぶ時も、相手を引っかけたりだましたりして、自分の方が知恵がまさっていたことを喜んだりする。
これも、礼に背いている。
だから、はじめは遊びだったり宴会だったりして始まったことが、いつまでも続く恨みになってしまうことも多いのだ。
こういうのは、みな、争いを好むことの弊害である。

人にまさろうと思うならば、ただ学問をして、自分の智が人よりすぐれているようになろうと思うべきである。
学問をして人の踏むべき道を学べば、自分の長所を自慢もしなくなるだろうし、仲間と争うべきではないということも知るはずだからである。
地位に恋々とすることなく重職を辞し、利にとらわれることなくそれを捨て去ることができるのも、ただ学問の力なのである。

 

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ご存知のように、私は、ここに書かれている

よろづの遊びにも、勝負(かちまけ)を好む人

なのですな。
その、徳にもそむき、礼にもあらぬこと、まったく兼好さんの言われておる通りです。
「論語読みの論語知らず」。
そうはならぬようにと、思ってはおるのですが、ほんとうの学問がまだまだ足りんのでしょうな。