貧しき者は財(たから)をもて礼とし、老いたる者は力をもて礼とす。
おのが分を知りて、及ばざる時は、速やかに止むを智といふべし。
許さざらんは、人の誤りなり。
分を知らずして、しひて励むは、おのれが誤りなり。

貧しくして分を知らざれば盗み、力おとろへて分を知らざれば病を受く。

 

貧しい人は、お礼は財貨ですべきだと思い、年寄りは力仕事をしてやることをお礼だと思う。
けれども、それはまちがいである。自分の分というものを知って、そうすることができないことはすぐにやめてしまうのが智というものだ。
もし、それを相手が許さないなら、許さない相手の方が間違っているのだ。
しかし、自分の身のほども知らずに、無理にそうしようとするのは、自分のまちがいである。

貧しいのに身のほどをわきまえない者はついには盗みを犯し、老いて力が衰えているおのが身のありさまを知らぬ者はやがて病気になる。

 

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まことに、貧しい者はお金をもらえばうれしいし、年寄りは力仕事をしてくれると、とてもありがたい。
私は、その両方に該当するので、それはよくわかる。
けれども、はたして、自分が、お礼としてそうしようと思うか、と言えば、そうでもない。
力も足りないし、お金もないのだもの、やりようがない。
どちらもありがたく頂戴はするが、お返しはしない。

許さざらんは、人の誤りなり。

兼好さんもそうおっしゃっている。
それでいいのだ。

及ばざる時は、速やかに止むを智といふべし。

まことにそのとおりである。

でもね、と思うのだ。
私は、若い奴が
及ばざる時は、速やかに止む
というのを好まない・・・・というか、たいそう頭に来る。

 

今女画   (いま、なんじ、かぎれり)!

そう言って、論語に冉求という弟子が孔子にえらく叱られるところがある。

冉求が言うんですな。
「私は、先生の言っているやり方をいいと思わないわけではないんです。
でも私には力が足らないのです」
すると、孔子は言うんです。
「本当に力の足りない奴なら、途中で落伍する。
しかし、いまのおまえは初めから自分で自分に見切りを付けているではないか!」

なんなんでしょうな、中学生や高校生ぐらいで、何の努力もしないで、はなから自分に見切りを付けてる奴がいるというのは!
私、ほんとに、頭に来るんです。
そして、ほんとに怒ります。
年甲斐もないことは知っていますが、こればっかりは止まらない。

だって、それは
及ばざる時は、速やかに止む
というのではないでしょう。
それは「智」ではなく「ズル」でしょう。
それはまちがいなく
女(なんじ)画(かぎ)れり!
です。

「徒然草」は年寄りが読むべきものです。
若者は「論語」を読みなさい!