明雲座主(めいうんざす)、相者(そうじや)にあひ給ひて、
「おのれ、もし兵杖(へいぢやう)の難やある」
と尋ね給ひければ、相人、
「まことにその相おはします」
と申す。
「いかなる相ぞ」
と尋ね給ひければ、
「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、かりにもかく思し寄りて尋ね給ふ、これ既に、危ぶみのきざしなり」
と申したり。

はたして、矢にあたりて失せ給ひにけり。

 

源平の戦いの頃の比叡山の座主であった明雲座主が、人相見におあいなされて、
「私に、ひょっとしたら武器で危難を受ける相がありますかな」
とお尋ねなされたところ、その人相見は、
「まことにあなた様にはその相がございます」
と申しあげた。
そこで
「それはどんな相なのですか」
と座主がお尋ねなされたところ、相者は
「あなたさまのように人から傷つけられる恐れもないようなお立場の人が、かりにも、そんなことを思いつかれてお尋ねなされること、これが既に、その危険があるきざしです」
と申した。

はたしてまさしくその通り、明雲座主は義仲軍の流れ矢にあたってお亡くなりになられた。

///////////////////////////////////////////////////////////

これもまた、占いの話。
そして、これもやはり、人相、手相の話ではない。
この人相見は、けっして明雲座主の骨柄について語ってはいない。
相手が無意識に抱いている不安の中に、その人の将来の厄災の種を見い出しているだけだ。

人は、物に浮かれてさえいなければ、いわゆる「虫の知らせ」というものを、ときとして聞くようにできている。
「虫の知らせ」とは、その時点では言語化されてはいない、その人の中の無意識がトータルとして持つ危機意識の事だ。
この天台座主もどこかでそんな虫の声を聞いたのだろう。

ある分かれ道で
「そっちに行っては危ない」
と、なんとなく思ってしまうのは、五感を超えたいわゆる《第六感》のしわざだが、それを明確に言語化してもらいたくて、人は街の占い師に前に坐ってその不安を口にするのかもしれない。

この座主が、この占いによって、なにかその生活ぶりを変えたのかどうかはわからない。
変えようもないことがあったから、木曽義仲が後白河院の御所を攻めたときに、そこにいることになったのだろう。

けれども、厄災に遭うかもしれないという心配は厄災そのもの以上に人に苦痛を与えるものだ。
来るものは来るし、来ないものは来ない。
要はそれだけのことで、そう思って生きればいいのだが、人はなかなかにネコのようには生きられないらしい。