「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。」
― 今上天皇の「お言葉」 ―
昨日の毎日新聞の「今週の本棚」欄に、中島岳志が、高山文彦という人が書いた
『ふたりー皇后美智子と石牟礼美智子』
という本の書評を書いていた。
上に書いたのはその中に引用されていた天皇の「お言葉」だ。
これは、2013年10月27日、両陛下が水俣を訪れられ、水俣病患者にお会いなされたあと、水俣病資料館で、「語り部の会」の会長・緒方正実氏がお二人に講話を行なったあと、天皇陛下が緒方氏の顔をじっと見つめ、予定にはなかった「お言葉」として述べられた言葉だという。
それにしても《自分が正しくあることができる社会》とはなんというすごい言葉だろう
しばらく、私の目はこの言葉の上に止まってしまっていた。
びっくりしたのだ。
ここで言われている「正しさ」は、ISや、あるいはフランスや欧州諸国、アメリカあるいはロシア、あるいは日本という国家が言う「正しさ」では、もちろんないだろう。
そういう集団としての「正しさ」やイデオロギーが告げる「正しさ」ではない。
天皇が語られた「正しさ」とは、、一人一人の心の中におのずから生じ、一人一人がおのずからわかる《正しさ》のことだ。
何かを行なおうとする時、ふと生じる心の痛みが、「そうではないだろう、そんなことをしてはいけないだろう」と、自分の心に呼びかける「正しさ」のことだ。
その自分の心が呼びかける《正しさ》に、私たち一人一人がそれぞれに従って行動できる社会を持つようになっていけたらいいと、天皇はおっしゃっているのだ。
日本国憲法には
思想及び良心の自由はこれを侵してはならない。
と、その第19条に書かれている。
この条文について、私は、「思想の自由」は大事なことだと思っていた。
けれども「良心の自由」の方に関しては、それがいったい何のことなのかさえ、実は今の今まで考えた事もなかった。
だが、実はこちらの方がほんとうはもっと大切なことだったのかもしれないとはじめて思った。
シリアやアフガンといった国では、人はなかなか自分の良心に従って生きることはできないだろう。
心が指し示す善悪の従って行動していれば、命さえ失いかねないほどに、状況は過酷だ。
けれども、こんな平和な日本においてさえ、人は必ずしも自分の良心には従ってばかりは生きていられないようにできているらしい。
もちろん、これは水俣病における、かのチッソという会社や国の事だけを言っているのではない。
かの杭打ちデータの偽装の事を言っているのでもない。
原発にしても、沖縄の基地にしても、あるいは偏ったニュースしか流さないNHKにしても、かなしいことに、あらゆる場面で、この国の国民は自分の良心を殺して生きているようだ。
なに、ひとごとのように語ってはいけない。
私たち一人一人もまた、どこかでそうしている。
だが、私たち一人一人が、そうしなくても済む国にこの国がなれたらどんなにすばらしいことだろう。
まるで宮沢賢治の童話のようだが。
経済的に豊かなことはたしかにすばらしいだ。
けれども、それより
「私たちのの国は自分が正しくあることができる社会を持っているんですよ}
と胸を張れたらどんなにすばらしいことだろう。
よくわからないが、この「お言葉」を読んで、私はとても元気になった。