この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様(ことやう)なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者(くせもの)なり、もっとも愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくくいぶせく覚えければ、ただ素直に珍しからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられけにけり。
さもありぬべき事なり。

 

この(日野賢朝という)人が、あるとき東寺の門に雨宿りをなさったときに、そこには乞食するかたわの者たちが集まっていたのだが、彼らは誰も誰もが皆、手も足もねぢれゆがみ、身は反り返り、どこにも満足なところがなく異様な姿であるのを見て、
どいつもどいつも見た事もないほど奇妙な奴らだぞ、これはおおいに愛好するに足りるぞ、
と思って、じっと彼らを見つめなさっているうちに、すぐにそれをおもしろがる思いは消えて、見にくく不快に感じてきたので、何の珍奇なところもなくただ飾り気のないどこにでもあるような物が一番よいのだと覚って、家に帰った後、この間から、植木を好んで、珍しげに幹や枝の曲がっているのを求めて、目を喜ばしせていたのは、あのかたわたちをを愛好していたのと同じだったのだと、興ざめな思いがしたので、鉢に植えられていた木を、皆掘り捨てられてしまった。
さもありぬべきことである。

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日野賢朝という人は1190年に生れ、1332年、すなわち、鎌倉幕府滅亡の前年に斬首されている。
享年42歳。
前の章段にあった京極為兼の逮捕は、彼の26歳の時の事件だったそうである。
彼らの倒幕の密議が漏れて日野賢朝が逮捕された「正中の変」は1324年。
34歳のときですな。

さて、その倒幕の密議というのは、武士や坊主を呼んで酒を飲みながらやられたらしいが、その様子はと言えば、「太平記」によれば、

献杯の次第、上下をいはず、男は烏帽子を脱いで、髻(もとどり)を放ち、法師は衣を着ずして白衣になり、年十七八なる女の、みめかたち優に、膚(はだえ)ことに清らかなるを二十余人、褊(すずし)の単衣(ひとえ)ばかりを着せて、酌を取らせければ、雪の膚すき通りて、太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)あらたに水を出でたるに異ならず。
山海の珍物を尽くし、旨酒(ししゅ)泉の如くに湛(たた)へて遊び戯れ、舞ひ歌ふ

《その飲み会の様子はと言えば、身分の上下をとやかく言わず、男は烏帽子を脱ぎ、もとどりをゆるめ髪を解き、法師は墨染の衣を着ないで白衣一枚、そこに年の頃なら十七、八の若いかわいいお姉ちゃんの、肌がとくに美しいのをニ十数人呼んで、彼女らに薄い透け透けの下着だけを着せて酌をとらせたので、その肌の白さがすきとおって見え、それはまるで、太液の池の蓮の花があらたに水の中から咲き出したばかりみたいだった。
そこに山海の珍味を並べ、旨い酒を尽きることなく酌み交わし、遊び戯れ、舞い歌う》

むかし、「ノーパンしゃぶしゃぶ」なんて妙な言葉があったりしましたが、なにやらそんな感じですな。

かの花園上皇(覚えてますか、この方です)

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も、その日記に、

凡そ、近日ある人の云ふ、賢朝・俊基等、結集会合して乱遊す。
或は衣冠を着せず、ほとんど裸形にして、飲茶の会ありと。

と書いているらしいですから、まあ、相当の評判になっておったのでしょう。
まあ、そんなことまでしないと、「革命の密議」ができないというのも、どうかと思いますが、幕末の志士とやらも、なにやら似たような按配だったそうですな。

 

ところで、「論語」に

《上を犯(おか)すことを好まずして、而(しか)も乱を作(な)すことを好む者は、未まだ之れ有らざる也。》

という語がありますが、徳高げな僧とそれをありがたがる目上の者を嗤ったこの賢朝という人、乱を起こすの気、おのずからすでにあったと言うべきものなのでしょうか。

ところで、この章段の結句

さもありぬべき事なり。

は、「いかにもそうであるのが当然だ」ということですが、これは
「ただ素直に珍しからぬ物にはしかず
という言葉に対する言葉なのでしょうか、それとも
「賢朝卿ならいかにもやりかねないことだ」
ということなのでしょうか。