遍照寺(へんぜうじ)の承仕(じやうじ)法師、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂のうちまで餌(ゑ)をまきて、戸ひとつあけたれば、数も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、たてこめて、捕へつつ殺しけるよそほい、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童(わらは)聞きて、人に告げければ、村のをのこども起りて入りて見るに、大雁(おほがん)どもふためきあへる中に、法師まじりて、打ち伏せねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁(しちやう)へ出だしたりけり。
殺すところの鳥を頸(くび)にかけさせて、禁獄せられにけり。
基俊大納言、別当の時になんありける。

 

 

遍照寺で雑役をしている法師が、池の鳥を日ごろから飼いならしておいて、ある日、お堂の中まで餌をまいて、戸をひとつあけておいて、鳥たちを数もわからぬほどたくさん誘いこんだあと、自分も中に入って、戸を閉めきって、鳥をつかまえては殺し、つかまえては殺ししているようすが、物騒がしく聞えたのを、草を刈っていた子供が聞きつけて、人に知らせたので、村の男たちが大勢でやって来て中に入って見ると、大きな雁たちがバタバタと大騒ぎしている中に、その法師がいて、鳥を打ち伏せて、ねぢ殺していたので、この法師を捕えて、そこから検非違使の庁へつき出した。
その僧は自分が殺した鳥を頸からぶら下げさせて、牢屋に入れられた。
基俊の大納言が、検非違使の別当の時にあった事件である。

 

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なんとも、おぞましい話である。

この法師、別に精進料理が日々続くことをもの足りなく思って、無性に鳥の肉が食べたくなった、というわけではあるまい。
仮に動機の一部にはそれがあったとしても、捕へつつ殺しける(「つつ」という副助詞は反復的行動を表す言葉なので、「捕らえては殺し、捕らえては殺し」という意味になる)うちに、箍(たが)がはずれたように、それが、ただ殺すためだけの行為に変化していったのかもしれない。

いずれにしろ、サディスティックな行動というのは、「他罰」的意識がなければ成立しないものだろう。
自分が「正義」の代行者であり、自分が罰しなければ誰も相手を罰する者がいないかのような幻想のもとに行われる。
そして、その行為は行なううちにエスカレートする。

ところで、この僧が、鳥を殺すことに何の「正義」を感じたかはわからない。

単に「鳴き声がうるさい」というだけで、野良猫をむやみに傷つけたり、毒の混じった餌を与えたり、あげくは、その頸を切り取る、などという事件がつい最近も起きているが、この僧にとっても、鳥の、がーがー言う鳴き声がうるさかったのであろうか。
ともかく、この行為を行うために、わざわざ鳥を日ごろ飼ひつけていた、この僧の冷静な計画性はおそろしい。

ところで、ここで
たてこめて(戸を閉め切って)
という言葉が書かれているが、むろんこれは堂にはいった鳥たちを逃がさないようにするためであるが、彼の行動がエスカレートするのは、このことによって、そこに他者の視線がさえぎられた閉鎖された空間を作り出されたためでもある。

日本軍隊内のビンタの横行にしろ、いわゆるDVにしろ、サディスティックな行為は、おおむね閉ざされた空間の内部で行なわれる。
そこでは、強者と弱者が画然と 分かたれ、その行為を規制する第三者の視線や力は排除されている。

第三者の目を忘れると、集団においても、サディズムは亢進する。
別に、ISの人質の頸を斬る行為や自爆テロのことをいっているのではない。
シリアに空爆を行う国々も、ヘイトスピーチにうつつを抜かす者たちもまた同じであろう。

玉城徹にこんな歌がある。

十字架につけよと言へば十字架につけよと応(こた)ふ群衆かれら

季節はクリスマスに近いのであるが・・・・。、