世の人あひ会ふ時、暫くも黙止することなし
必ず言葉あり。
その事を聞くに、多くは無益(むやく)の談なり。
世間の浮話、人の是非、自他のために失多く、得少なし。
これを語る時、たがひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。

 

世間の人がお互いに出会うと、ほんのしばらくの間も黙っていることがない。
必ず言葉がある。
で、その話を聞いてみるというと、その多くはどうでもいい話だ。
世のうわさ話や、あいつはいい奴だ、ツカエナイ奴だといった話で、そんなものは話す方にとっても聞く方とっても、損はあっても何の得にもならぬことばかりだ。
要は、こんなことを話しているとき、お互いの心の中に、それが無益の事なのだという事を知らないのだ。

 

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テレビのニュースを見なくなったのは、例の「安保法案」が国会を通った後からだから、もうずいぶんになる。
ラジオのニュースも聞かないから、いわゆる「ニュース」なるものを目にするのは新聞だけである。
それで、この間わかったことはといえば、ニュースといわれるもののほとんどは、要はまったく私にかかわりがないものであった、ということである。
原発の再稼働や、沖縄基地問題、あるいはパリでのテロとシリア空爆などをのぞけば、アメリカの金利が上がろうが、マンションの杭打ちが地盤に届いていなかろうが、澤選手が引退しようが、いったいそれのどこが私にかかわりがあろう。
そこに映像と音声が加わり、コメンテーターが深刻そうな顔で語ることがなければ、そのようなことは、まったく自分にかかわりのない「どーでもいいこと」であることは誰でも気づく。
気づいても、人は習慣でニュースを見ているだけだ。

ニュース・ステーションの古舘氏が来年の三月に番組を下りるそうだ。
さまざまな批判もあろうが、権力におもねるキャスターが多い中で、彼の存在は貴重だと思ってはいたが、十余年にわたってニュースにひたりつづけることがどんなに人の精神をおかすものかをおもえば、その降板は彼にとってよいことに違いないと思う。

ニュースとは、要は 世間の浮話、人の是非、に過ぎず、その多くは 自他のために失多く、得少なきものである。