太衝(たいしよう)の太の字、点打つ、打たずといふこと、陰陽(おんやう)のともがら、相論の事ありけり。
盛親入道申し侍りしは、
「吉平(よしひら)が自筆の占文(せんもん)の裏に書かれたる御記(ぎよき)、近衞関白殿にあり。
点を打ちたるを書きたり」
と申しき。

 

陰暦九月の異称である「太衝(たいしよう)」という字の太の字に点を打つとか打たないということを、陰陽道の連中が、論争したことがあった。
そのとき、盛親入道が申しましたことには、
「安倍晴明の息子の吉平(よしひら)の自筆の占いの文の裏に書かれた日記が、近衞関白殿のところにあります。
そこには点を打った「太」という字を書いてありました」
と申しました。

 

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普通の辞書にも載っていない「太衝」などという言葉(「大辞林」には載っていた)の、その漢字に点があろうがなかろうが、まあ、どうでもいいと言えばどうでもいいことだけど、その道の人にとってはたいへんな問題なのかもしれない。
(私だって、若い頃、江藤淳の「小林秀雄」という評論の中で中也の
汚れちまつた悲しみに
という詩の表記が
汚れちまつた悲しみに
となっているので、こいつ、詩のわからん奴だ、などと思ったことがあるが、まあ、これだってどうでもいい、と言えば、もちろん、どうでもいいことだ)

それに比べれば、同じ点でも、濁点のあるなしの方がおおきいですな。
なにしろ、

世の中に澄むと濁るは大ちがい「ハケ」に毛があり「ハゲ」に毛はなし

なんて、戯れ歌があるくらいですからね。

ところで、

占文の裏に書かれたる御記
(占いの結果を書いた紙の裏に書かれた貴人の日記)

という言葉がありますが、当時は紙が貴重品だったので、貴人といえど、書き反故の裏を利用するのが当たり前だったんですな。
となると、徒然草第十九段に、勇ましく

おぼしき事いはぬは、腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あじきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

(わしの書いているものは、思っていることを言わずにいるのはストレスがたまるというので、筆に任せて書いているだけのつまらん暇つぶしで、まあ、こんなもの、書いたそばから、すぐに破り捨てるはずのものだから、人が見るはずもない)

などとうそぶいていた兼好さんは、相当裕福だったんでしょうかしら。