あづまの人の、都の人に交はり、都の人、あづまに行きて身を立て、また、本寺・本山を離れぬる顕密の僧、すべて、わが俗にあらずして人に交はれる、見ぐるし。

 

 

関東の人間が、都の人に交わり、都の人間が、関東に下って立身出世し、また、本寺・本山を離れぬる顕教、密教の僧が、どんなことであれ、その人本来のありようを離れて人に交わっているのは、見ぐるしい。

 

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この兼好の言葉の前半部を、ああそのとおりだ!という現代人はいないだろう。

第一、ソロムコ、バッキー、カークランドの時代から、外国人の助っ人を除いては、我等が阪神タイガースの涙の歴史は語れないではないか!

しかし、兼好は、それを「見ぐるし」という。
それは、彼の生きた世が、すでに家柄や先例、あるいは有職故実によってではなく、《見ぐるし》と彼の呼ぶ人々によって動かされる時代へと入っていた徴でもあるんでしょう。

兼好より時代は下るが、応仁の乱の西軍の親分であった山名宗全はあるとき、大臣に向かって

といふ文字をば向後(きょうこう)といふ文字にかへて御心得あるべし」

と言ったと伝えられている。
宗全はつづけて、
「今は、昔はこうやった、ああだった、などということを言ってもはじまらないのであって、そもそも、私みたいな匹夫が、あなたとこうやって話をしているなどということがすでに例のないことであって、これが時というものでありましょう」
と言っている。
兼好の生きたのはそんな時代へ向かう過渡期である。

ところで、既得権を次々に侵され、ついにはそのほとんどを奪われていく貴族階級の末端に兼好はいたわけですが、この段の最後の
見ぐるし
という一句、なにやら吐き捨てるような語気がありますな。
後醍醐に取り入った文観のような怪僧のことが頭にあったのでしょうか。