人間の営みあへるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。
その構へを待ちて、よく安置してんや。
人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

 

人間のせっせとやっている事を見ると、春の日に雪で仏像を作って、それに金銀珠玉を飾りつけ、その雪だるまの仏像のための堂を建てようとするのに似ている。
そんなことをしてみたところで、堂が出来上がるのを待って、雪だるまを中に安置することができようか。
人の命はまだまだあると思っていても、それは下から消えてゆく雪のようなものであるのに、人はせっせとはたらいて明日を期し明日を願うことがはなはだ多い。

 

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♫ それがどうした、文句があるか~

という歌を、昔、ダミ声のおっさんが歌っていた。
私も、まあそんな気分である。

たとえ、下からとけてゆく雪であっても、雪が積れば、それで雪だるまを作り、目鼻をつけてみるのが人間である。
むろんそんなことを年寄りはやらないだろう。
それは、子どもや若者が持っている「生命力」が衰えたからだ。

そもそも人は皆死んでいくものなのに、なぜ世の中の人は皆それをむなしいとも思わず生き続けているのだろう、と高校生の頃ずっと考えていた時期があった。
要は自分の人生を無駄なものにしたくないという強すぎる欲望があったから、そんなことを考えていたのだろうが、思えば、あらゆる生命は死ぬために生きているのだから、要は生命そのものが壮大なムダである。
(高校・大学時代などというのは、無駄な生命力の最盛期である)

けれども、そのムダが山を緑にし、野を花で飾り、鳥を歌わせ、獣を野に駆けさせる。
その中に人も生きている。

まあ、兼好が言っているのは、そんな根本の事ではなく、《堂》に代表される人の営みの過剰さについて意見なのだろうが、、正月早々、めでたくもない、身も蓋もないことを言っている段を引用する羽目になったので書いてみた。

元日早々、こんな意見に同調するようでは、本年の自分の生命力は相当衰えていると思った方がいいですからな。