一道にたづさはる人、あらぬ道のむしろに臨みて、
「あはれ、わが道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」
といひ、心にも思へる事、常のことなれど、よにわるく覚ゆるなり。
知らぬ道のうらやましく覚えば、
「あなうらやまし。
などか習はざりけん」
といひてありなん。

わが智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角を傾け、牙あるものの牙をかみ出だすたぐひなり。

人として善をほこらず、物と争はざるを徳とす。
他にまさることあるは、大きなる失なり。
品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉れにても、人にまされりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心そこばくのとがあり。
慎みてこれを忘るべし。
をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただこの慢心なり。

一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物にほこる事なし。

 

あることをやっている人が、自分の専門外の事柄に関することが話題になっている場に連なって
「ああ、これが自分のやっていることであったならば、いろいろ話す事もできるのに」
と言ったり、あるいは心にも思うのは、常のことではあるけれど、それは実にみっとむないことであると思える。
自分の知らない事柄を知っていることをうらやましく思ったならば、
「ああ、うらやましいなあ。
どうして私は習わなかったのだろう」
と言っておけばよい。
自分の知恵や知識をひけらかして人に争うのは、角のある動物が角を傾けて争い、牙ある動物が牙を噛み合って諍うのと同じことだ。

人として自分のすぐれていることをほこらず、他人と争わないのがよいことなのだ。
そもそも他人にまさることがあるは、実は大きな欠点であるのだ。
家柄や身分の高さでも、才芸のすぐれていることでも、先祖の誉れでも、人よりも自分がまさっていると思っている人は、たとえ言葉に出して言わなくても、そう思うことそれ自体がおおいに非難されるべき事なのだ。
だから、心を謙虚にして、そんなことは忘れるべきなのだ。
見るからにアホウに見え、人にも非難され、禍いまでも招くものは、ただこのおごった心なのだ。

たとえ一つの事柄であってもほんとうにそれに長じている人というのは、自分ではっきりと自分のつたなさを知っているので、理想に届いていないことを常に思って、最後まで自慢する事などしないものだ。

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まことにその通りで、何も言うことはございませんな。

四字一句、二百五十句を並べた「千字文」にも、この句あり。

罔談彼短     かれのとがを、かたるなかれ
靡恃己長     をのれがまされることを、たのむことなかれ

君子たるものかくあれかし、でございます。