年老いたる人の、一事にすぐれたる才(ざえ)のありて、
「この人の後には誰にか問わん」
など言はるるは、老(おい)の方人(かたうど)にて、生けるもいたづらならず。
さはあれど、それもすたれたる所のなきは、一生、この事にて暮れけりと、つたなく見ゆ。
「今は忘れにけり」
と言ひてありなん。
おほかたは、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。
「さだかにもわきまへ知らず」
など言ひたるは、なほ、まことに道のあるじとも覚えぬべし。
まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、
「さもあらず」
と思ひながら聞きゐたる、いと、わびし。

 

年とった人で、ある事にすぐれた学識がある人が、ほかの人から
「この人が亡くなってしまったあとはこれを誰に問えばいいのだろう」
など言はれるのは、年寄りの味方というもので、こんなふうに言われるならば、長生きするのも無駄ではない。
そうではあるが、それもどこかに衰えたところのないのは、一生、その事だけで終わってしまったのだなと、たいした人ではないように思える。
「そのことは今は忘れてしまいました」
ぐらいに言っているのがいい。
だいたいにおいて、知っていたとしても、やたらに言い散らすのは、この人、実はそれほどたいした才ではないのではないかと聞えるし、さまざま言い散らしているうちにはおのづから誤りも混じってしまうだろう。
「わたくしもはっきりとは知ってはいないのですが」
など言っているほうが、いっそう、本当にその道の第一人者であると、きっと人々も思うにちがいない。
まして、年齢も相当の年でこっちが非難することもできないほどの人が、よく知りもしないことをしたり顔で言ひ聞かせているのを、こっちが
「そうではない」
と思ひながら聞いているのは、ずいぶんやりきれないものだ。

 

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なにやら中島敦の「名人伝」の終りの部分のようですな。

それはさておき、私ら、別に一事にすぐれたる才があるわけではないけれども、気がつけば

 おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人
(相当年がいって、非難することもできないような人)

になってしまいましたな。

以前なら、そこらじゅうから
「何をダラなこと言うとらんや!」
なぞ言われた事も、もはや、周りの若い人たちは
「さもあらず」
と思いながらも、我等が老いに「敬意」を表して言わなくなってきているでしょう。
もはや、私らの誤りを正して、歯に衣着せず直言してくれるのは、御同輩の面々だけ、ということになってきておるのかもしれません。

もっとも、この通信を読んでいるような私の教え子たちは、まだまだ私に対する「敬老の精神」が足りないようで、これはなかなか心強いことであります。