さしたる事なくて、人のがり行くは、よからぬ事なり。
用ありて行きたりとも、その事果てなば、とく帰るべし。
久しく居たる、いとむつかし。

人と向ひたれば、詞おほく、身もくたびれ、心もしづかならず。
よろづの事さはりて時をうつす、たがひのため益なし。
いとはしげに言はんもわろし。
心づきなき事あらん折は、なかなかその由をも言ひてん。
同じ心に向かはまほしく思はんひとの、つれづれにて、
「いましばし。
今日はこころしづかに」
など言はんは、この限りにはあらざるべし。
阮籍げんせき)が青き眼(まなこ)、誰にもあるべきことなり。
その事なきに、人の来たりて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。
また、文も、
「久しくきこえさせねば」
などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

 

たいした用事もないのに、人のところへ行くのは、よくないことである。
用があって行ったとしても、その用事が終わったならば、すぐに帰るべきである。
長っ尻(ちり)で長く居続ける人は、たいそうわずらわしい。

人と対坐していると、言葉は多くなり、身もくたびれ、心も落ち着かない。
万事にさしさわりがあって、そんなことに時をうつすのは、たがひのために何の益もないことだ。
厭そうに話すのもよくない。
気乗りせぬときは、かえって、そのことを言うのがよい。
とはいえ、訪ねた相手がお互い気心の合う一緒にいたい思うような人で、その人が、所在なくしていて、
「もうちょっとだけいてください。
今日はこころしづかにすごしましょう」
など言うのは、この限りではないだろう。
厭な奴が来ると白眼で対し、気の合う奴がくると青眼で迎えたという「竹林の七賢」の一人である阮籍のように、思わず、にっこり青眼で迎えたい友というものは誰にもあるものである。
また、これといった用事もないのに人がやってきて、ゆったりとした物語をして帰っていく、というのもたいへんいい。
また、手紙も、用事ではなくて、
「長い間おたよりもさしあげませんでしたので」
などということだけを書いてよこしてくれるのは、たいそううれしい。

 

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内田百閒の家の玄関の柱には

 

世の中に人の来るこそうれしけれ
とは云ふもののお前ではなし

 

という歌を書いた紙が貼り付けてあったそうである。

これは蜀山人の狂歌を本歌にした百閒のパロディだそうだ。

私、客が来るとて拒んだ事もないが、ときどき、この歌をドアに貼りつけたい気になる事もある。