観衆がいなくてもできるとはいえ、観衆の目の前でやることによって、快い満足感は昂(たか)まってくる。
― ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」 (高橋英夫 訳)―
なんたる事であろう!
夕方やってきたアユちゃんによると、学校帰り、あの飛べないカラスを小学生の子どもたちが追いかけまわし、とり囲み、石まで投げていたのだそうである。
それと気づいた彼女と友だちが立ち止まると、
「あ、やばい、見られてる」
と言って、握っていた石を後に隠して、通り過ぎるのを待っていたそぶりを見せていたのを、彼女たちが、それでも、見ていると、彼らはその場を離れて行ったそうな。
まったくなんたることであろうか!
もちろん、その場に私がいたら、世の中には、《なんだかよくわからないけど、とてつもなくこわいおじさん》というものがいるのだということを、彼らに教えてあげたのだが。
その話を聞いて、あの浦島太郎の話はほんとうのことなんだなと思った。
亀をいじめるのは、子どもなのだ。
今日引用したホイジンガが書いているのは「遊び」のことだが、アユたちが見た小学生たちにとっても、カラスをいじめることもただの気晴らしの遊びなのだ。
彼らも一人ではけっしてそんなことはしないのだろうが、仲間がそのまま「観衆」となって、行動がエスカレートするのだろう。
今日裁判があったという、あの川崎の事件もその内実は同じことなのだ。
そのエスカレートを止めるものは、「仲間」ではない外部の目だ。
それにしても、なんたることであろうか!
カラスはどんなにかこわかったことだろう。
夜、塾が終わった後、心配になって見に行ったら、カラスはいつもの電柱の上にいつものようじっと留まっていた。
この寒空にたった一羽、その上、子どもたちからはいじめられて、なんとつらいことだ。
鹿児島の城山公園というところには次のような西郷隆盛の遺訓が彫られた碑があるらしい。
一(ひとつ)、 嘘をつくな。
一、 弱い者をいぢめるな。
一、 負けるな。
みんなあたり前の実に単純な言葉だ。
けれど、問題は、これをお題目としてではなく、どれほど真剣に言える者がいるかということなのだろう。
西郷さんはこれを子どもたちにむかって、あの団栗眼をもっと大きくして真剣に言ったということなのだろう。
最後の「負けるな」は、あのカラスに、言ってあげたいな。
西郷さんも応援しているぞ!