世には心得ぬ事多きなり。
ともあるごとには、まづ酒をすすめて、強ひ飲ませたるを興とする事、いかなる故とも心得ず。
飲む人の、顔いと堪へがたげに眉をひそめ、人目をはかりて捨てんとし、逃げんとするを、捕へて引きとどめて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、たちまち狂人になりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らずたふれ伏す。
祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。
明くる日まで頭(かしら)いたく、物食はず、によひ臥し、生(しやう)を隔てたるやうにして、昨日のことおぼえず、公私(おほやけわたくし)の大事を欠きて煩ひとなる。
人をしてかかる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にもそむけり。
かく辛き目にあひたらん人、ねたく口をしと思はざらんや。
人の国にかかる習ひあなりと、これらになき人ごとにて伝へ聞きたらんは、あやしく不思議に覚えぬべし。
人の上にて見るだに心憂し。
思ひ入りたるさまに、心にくしと見る人も、思ふ所なく笑ひののしり、詞(ことば)多く、烏帽子ゆがみ、紐はづし、脛(はぎ)高くかかげ、用意なき気色、日ごろの人とも覚えず。
女は額髪(ひたひがみ)晴れらかにかきやり、まばゆからず顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手にとりつき、よからぬ人は、さかな取りて、口にさしあて、みづからも食ひたる、さまあし。
声の限り出だして、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出だされて、黒くきたなき身を、肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへ、うとましくにくし。
あるはまた、わが身いみじき事ども、かたはらいたくいひ聞かせ、あるは酔ひ泣きし、下ざまの人は、罵(の)り合ひいさかひて、あさましく恐ろし。
恥ぢがましく心憂き事のみありて、はては、許さぬ物どもおし取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、あやまちしつ。
物にも乗らぬきはは、大路をよろぼひ行きて、ついひぢ・門(かど)の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟かけたる法師の、小童(こわらは)の肩をおさへて、聞えぬ事ども言ひつつよろめきたる、いとかわゆし。
かかる事しても、この世も後の世も、益あるべきわざならば、いかがはせん、この世はあやまち多く、財(たから)を失ひ、病をまうく。
百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起れ。
憂へ忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。
後の世は、人の知恵を失ひ、善根を焼くこと火のごとくして、悪を増し、よろづの戒を破りて、地獄におつべし。
「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生(しょう)が間、手なき者に生る」
とこそ仏は説き給ふなれ。
かくうとましと思ふものなれど、おのづから捨てがたき折もあるべし。
月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して、盃出だしたる、よろづの興をそふるわざなり。
つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、とり行ひたるも、心なぐさむ。
なれなれしからぬあたりの御簾の中より、御果物・御酒(みき)など、よきやうなる気はひしてさし出だされたる、いとよし。
冬、狭き所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。
旅の仮屋、野山などにて、「御肴(みさかな)何がな」などいひて、芝の上にて飲みたるもをかし。
いたういたむ人の、しひられて少し飲みたるも、いとよし。
よき人の、とりわきて、
「今ひとつ。
上すくなし」
などのたまはせたるもうれし。
近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。
さは言へど、上戸はをかしく、罪ゆるさるる者なり。
酔ひくたびれて朝寝(あさい)したる所を、あるじの引き開けたるに、惑ひて、ほれたる顔ながら、細きもとどりさし出だし、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、かいとり姿のうしろ手、毛生ひたる細脛(ほそはぎ)のほど、をかしくつきづきし。
世の中にはわけのわからんことがたくさんあるものだ。
中でも、何か事あるごとに、人にまず酒をすすめて、無理強いに飲ませておもしろがるというのは、どういうことなのかさっぱりわけがわからない。
酒を飲んでいる(飲まされている)人が、なんとも堪えがたいというふうに眉をひそめて、人目のないのをうかがって盃の中の酒を捨てようとし、あるいはその場を逃げようとするのを見つけると、つかまえ、引きとどめて、むやみに飲ませてしまう。すると、礼儀正しいりっぱな人も、たちまち気ちがいのようになって馬鹿げたふるまいをしだし、健康な人も、見る見るうちに重病患者のようになって、前後も知らず倒れ伏してしまうことになる。
お祝いの日などにそんなことになると、ほんとに興ざめなことにちがいない。
あげく、酒を飲めば、明くる日まで頭がいたく、物も食べられず、うめきながらうっぷして、まるで別世界に生まれ変った者でもあるように、前日のことをすこしも覚えておらず、その結果、公私の大事な用事を怠って何かと支障が生じることとなる。
無理強いに酒を勧めて人をこんな目をあわせることは、慈悲もないことだし、礼儀にも反している。
一方こんな辛い目にあった人の方は、このことをいまいましく、悔しいと思わないだろうか。(きっと思うにちがいない)
ほかの国には、酒を勧めるこんな風習があるそうだ、などと、こんな話を、私たちが、こっちにはない、人様の国の事として伝へ聞いたら、なんとも奇怪なふしぎな風習があるものだと絶対思うにちがいない。
酔っ払うことのひどさは、そんな人の様子を見ているだけでもうんざりしてしまうほどだ。
ふだんは思慮深そうなようすで、奥ゆかしい人だと思っていた人も、酒に酔えば、何を考えておるのか、わけもなく笑ひ、大声をあげて、べらべらべらべらしゃべり散らし、烏帽子はゆがみ、服のボタンははずれ、脛を高く上げて、もはやどこにも気を使うふりもみせないその様子は、日ごろのその人とも思えない。
女は、とみれば、額もあらわに髪をかきやり、てれもせず顔を仰向けてうち笑ひ、人が盃持っている手にとりつき、品のないのになると、酒の肴を箸で取って、人の口にさしあて、それを自分が食べたりする。みっとむないことだ。
かと思えば、声の限りの大声を出して、おのおの歌い、舞い、あげくは年とった芸人法師を呼びだして、それが、肩脱ぎになって上半身裸になり、その黒くきたない体を、見てはいられないほどにひねりくねらせるのを、おもしろがって見ている人がいるが、「なんなんだ、こいつらは」と思ってしまう。
そうかと思えば、自分がいかに立派であるか、なんてことを、横にいるのもきまりがわるくなるほどに語り聞かせる人もいるし、あるいは酔って泣きつぶれるのもいる。あげく教養のない輩は、罵り合い、論争を始めたりして、いやはや、呆れかえって恐ろしいことだ。
こんなふうに恥さらしで不愉快なことの限りを尽くしたあげくは、「あげる」とも言っていないそこらにある物を、勝手に取って、はては縁から転げ落ち、あるいは帰りの馬・車より落ちて、怪我までしてしまう。
一方、乗り物にも乗らないような身分の者は、大路をふらふらよろめき歩き、土塀やら門の下などに向かって、ゲロを吐いたり、小便を垂れたりと、口では言うのもはばかられるようなことをさんざんにし散らす。同じく徒歩で帰る年とった袈裟をかけた法師が、小さな童の肩をおさへて、わけのわからん事ども言いながらよろめいていくのは、かわいそうで見ていられない。
こんなふうであっても、酒を飲むことが、この世にでも来世にでも、益のあるべきことならば、それはしかたがないと思うが、酒を飲めば、この世ではあやまち多く、金を失ひ、病を呼びこんでしまう。
百薬の長、なんて言われてはいるが、ほんとうは「よろづの病は酒よりこそ起れ」である。
酒を飲めば憂いを忘れることができる、なんて言ってはいるが、むしろ酔った人こそが、過ぎてしまったつらいことを思ひ出して泣いているようではないか。
一方、来世の方はといえば、酒によって人はこの世で知恵を失い、その結果、酒はいわば善根を焼きつくす火のようなものとなって、悪を増し、よろづの戒を破らせることとなるのだから、結局地獄に落ちてしまうことになるにちがいない。
「酒をとって人に飲ませた人は、今後五百回生まれ変っても、ずっと手のない者に生れるぞよ」
と仏様はお説きなされているそうではないか。
とまあ、こんなにもいやなものだと思ふものなんだけれど、時としては、当然酒を捨てがたい場面もあるのである。
月の夜、あるいは雪の朝、はたまた花のもとに、心のどかに物語して、一杯やるってえのは、よろづの興をそふるわざ、なんである。
はたまた、なんだか退屈している日に、思いがけず友だちがやって来て、杯をとり交すのも、心が慰められる。
高貴なお方が御簾の中から、酒の肴と御酒を、いかにも上品な様子でさし出してくださるのもよいものである。
冬、狭い所で、つまみになる何かを火であぶたっりしながら、気の置けない者同士さし向いで、多く飲む、っていうのも、たいそういいもんである。
旅の宿や野山などで、「肴に何かほしいなあ」など言いながら、草の上で飲むのもいいね。
酒を飲みたがらない人が、それでも人に勧められて、少しだけ飲んじゃった、っていうのは、たいへんいい。
身分の高い人が、特に自分に向かって、
「もういっぱいどうかね。盃があいているよ」
などとおっしゃってくれるのもうれしいものである。
近づきになりたいなあと思っている人が、酒をたしなむ人で、酒のおかげですっかり打ち解けてしまうっていうのも、またうれしいものである。
とはいっても、酒を飲める人は面白みがあって、少々の過失は許される者なのである。
酔いくたびれて人の家に泊まり、朝寝している所を、あるじが部屋の戸を引き開けると、まごついて、寝ぼけた顔のまま、烏帽子もかぶらず細いもとどりをむき出しにして、着物も着終わらないままそれを手に抱え持って、ひっさらうように逃げていく、裾をたくし上げたそのうしろ姿や、もしゃもしゃ毛の生ひたる細い脛のようすなども、なかなか愛嬌があって、それはそれ、なかなか酒飲みにふさわしいもんである。
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この章段の前半は、まるで勝田氏が書いたかのようである。
ふだん苦言を呈せられ、身に覚えのある身としては、何も言うことはありませぬ。
ところで、先日読みかえしてみたルイス・フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩波文庫)にはこんなことが書かれておりました。
(フロイスは信長の頃日本にやってきたイエズス会の宣教師です。)
われわれの間では誰も自分の欲する以上に酒を飲まず、人からしつこくすすめられることもない。
日本では非常にしつこくすすめ合うので、あるものは嘔吐し、また他のものは酔払う。
兼好は14世紀、フロイスは16世紀の人ですが、日本、変わってませんな。
まったくおんなじです。
人に酒を勧めないヨーロッパがうらやましい。
こんな事も書いてあった。
われわれの間では酒を飲んで前後不覚に陥ることは大きな恥辱であり、不名誉である。
日本ではそれを誇りとして語り、
「殿Tonoはいかがなされた。」
と尋ねると、
「酔払ったのだ。」
と答える。
この《殿》というのが信長かどうかはわからないが(そうだとおもしろいが)、どうやら日本人は酔払うのが好きな人たちらしい。
そういえば、この前、期末試験の勉強に来ていた高校生がやっていた「土佐日記」の「門出」のところにはこんなくだりがありました。
諸兄諸姉たちの中にもきっと覚えておいでの方もおられるでしょう。
廿二日、(中略)、上中下(かみなかしも)酔ひ飽きて、いとあやしく、塩海のほとりにて、あざれあへり。
(十二月の二十二日、身分が上の者も中くらいの者も下の者も、いやというほどべろんべろんに酔払って、ひどくぶざまな格好で、物が腐るはずのない塩海のほとりなのに、物が腐るみたいにふざけ合っています。)
その二日後の二十四日の記述はこうです。
ありとある上下(かみしも)童(わらわ)まで酔ひしれて、一文字をだに知らぬものしが、足は十文字にふみてぞ遊ぶ。
(あらゆる身分の者たちに、卑しい下男までも加わって、へべれけに酔払って、一という文字一つさえ知らない者たちが、なんと足の方は縦横無尽に、十文字に千鳥足を踏んで戯れています。)
送別会続きですな。
そのたびに飲んで酔っ払っている。
本文を続けて読んでいくと、なにせ、「風がない」、「風が強すぎる」と、船がなかなか出ないので、半月以上飲んでばかりです。
これが、十世紀の日本ですが、二十一世紀の日本はどうなんでしょう。
(これ、昨日金沢では飲み会だったそうなので、訳してみました。)