雉が騒がしく啼くので、家人が窓からのぞいたら庭にタヌキが!
タヌキなら数年前に町内の道を独り歩いておりました。
そのおり、名を問うたところ、「わが名はポンタ」と応えたあいつに
違いない。こたびは嫁さんづれで春の陽にあたっておりました。
そのことにかこつけるわけではありませんが、村上柴田翻訳堂か
ら、サローヤンの『我が名はアラム』の新訳が、『僕の名はアラム』
というタイトルで出ました。
たぬきでさえ、”我が名は”と言っているのに、”僕の名は”ではいか
んでしょう!!
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おたよりありがとうございます。
いやはや、ご両人とも立派な恰幅ですな。
いかにも “ポン太” “ポン子”です。
それにしても「僕の名はアラム」―― いただけませんな。
あのですね、春休みの今、私、たいそうヒマのなので英語の本を読んでいます。
E.M.Forster “ A Room with a View ”
これ、日本語の題名は 「眺めのいい部屋」。
あのですね、英語の本でもですね、本文の方は、まあ、私でもなんとか読める(あるいは訳せる)。
でもですね、題名はですね、外国語の言葉の機微に通暁したその道の達人が訳してくれたものにはかないません。
“ A Room with a View “ ・・・ 「眺めのいい部屋」。
すばらしいですな。
完璧です。
こんなふうには、私、訳せません。
たとえばですな、ヘミングウェイの短編集に ” Men without women ” てのがある。
あなたなら、この題名、なんと訳しますか。
これを 「女のいない男たち」 ・・・ なんて訳したら、ダメなんですな。
それじゃあ、モテナイ男たちの話になってしまう。
正解は 「男だけの世界」。
カッコイイですな。
ピリッとしてますな。
この短編集、まったく訳された題名どおりの世界が描かれてるんですが、でもまあ、こんなふうには訳せないもんです、シロウトは。
さて ” My Name is Aram “.
まあ、たしかに 「僕の名はアラム」だけど、そして、小学校の3年生ぐらいの主人公に「我が名は」と言わせるのもどうか、と思うのかもしれないけれど、そこまで言うならいっそもっと小学生らしく、
「僕の名前はアラムです」
にしてしまえばいいじゃないか!
あのですね、子どもというのは、どの子も自分の名前にすごい誇りを持っているんです。
言うてしまえば、子どもというのは、実は、「自分=自分の名前」なんです。
名前と存在がぴったり一致している。
「名は体を表す」なんて言葉は知らなくても、名前こそが存在そのものなんです。
中には、「こんな名前じゃなくてあんな名前がよかった」なんて子もいますが、そんなことを言うのも実は子どもというものが、大人が思っている以上に「名前=自分」の思いが強いからなんです。
大人になれば、いつの間にやら自分の名前まで符牒や記号のような物になってしまっていますが、子どもはそうじゃない。
だからこそ、子どもに、自分の名の由来を聞かれなかった親はいないんです。
それぐらいこだわりがある。
だから10歳前後の子が
―― 僕の名前はアラムだよ
というとき、そこには誇らかな気持ちがあるに決まっている。
その気負いも込めての『我が名はアラム』です。
全然関係ないかもしれないけれど、新約聖書の最初に置かれている「マタイによる福音書」の冒頭はアブラハムからイエスに至る長々とした系図で始まります。
「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちの父、・・・」と始まって、すこしゆくと、
「パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、・・・」
っていうのが出てくる。
アラムというのは、かかる由緒正しい名前なんです。
なにしろ、一見「ナムアミダブ」と見まがう方のお父さんなんですから。
真宗門徒だって、よい名だと思ってしまう。
ましてや、キリスト教徒です。
そのうえ、このアラム君はアルメニア移民の子で、そのアルメニアというのは、かの「ノアの方舟」が流れ着き、その山頂にひっかかったというアララト山があった国ではありませんか。
小学生の彼が「僕の名はアラム」と言ったって、気分はきっと「我が名はアラム」であったはずですし、なおかつ、その名のりと、書かれていることのギャップが愉しいんです。
それになんと言っても「我が名は――」の方はきっちり七音ですのに、「僕の名は――」の方は八音。
間延びしております。
柴田元幸氏の翻訳は、これまでもたいそう読みやすかったので、たぶん、この小説の訳もいいんじゃないか、とは思いますが、できれば題名は「我が名はアラム」で、やっていただきたかったなあ。
すてぱん