遠き日に菜の花近くありにけり
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なのはな、なのはな、なのはな、なのはな・・・と書いてみる。
なのはなはやさしい。
その色も、その香も、そして、その名さえ、あどけなくなつかしい。
なのはな、なのはな、なのはな、なのはな。
「いちめんの」
と山村暮鳥は「風景」という、ただその名を書き連ねただけの詩を書いた。
「木の花は」
清少納言はそうやって木の名を列挙した。
けれど
「菜の花は」
とは書けない。
この国に「《菜》の花」は、黄色いこの花一つしかない。
なのはな、なのはな、なのはな。
菜の花は、野に咲かない。
菜の花は、畠に咲く。
(ちなみに、《畠》という字は「白く乾いた田」という意味の、日本人がつくった国字だ。)
暮鳥が歌った「風景」とは、ときとして人を拒み人と対立する自然のそれではなく、人の手が入り人に馴致され、人をやさしく包み込むそんな風景だ。
だからこそ、なつかしいのだ。
一日もの言はず
野にいでてあゆめば
菜種のはなは波をつくりて
室生犀星は「寂しい春」の中でこう歌う。
「あをぞらに 越後の山も見」える北関東の平野にあって、詩人は黄の花を咲かせる菜の花の波の中にいる。
そして犀星はつづけて歌う。
いまははや
しんにさびしいぞ
なぜ詩人は「いまははや しんにさびしい」のか。
菜の花の黄色は単純な色だ。
いうなれば、それはディック・ブルーナの絵本の色づかい。
一点のくもりもなく、あかるく、あどけない。
けれども、だからこそ、時にそれは、かえって補色のように、目には見えぬ暗いものを際立たせる。
すべてをやさしく包みこむがゆえに、かえってそこに包摂されない感情が際立つのだ。
「いまははや しんにさびしいぞ」という、青春のわけもわからぬ愁い――もちろん、司氏にも私にも、そんなものは遠い。
遠いが、しかし、それはかつて私たちの中にあったものだ。
遠き日に菜の花近くありにけり
司氏がそう感慨するとき、その「遠き日」は一義的には絵本の中のような幼い日を指すにちがいない。
けれどもそこには、おのれの感情がなべて意味あるものに思えた若き日への思いも含まれるものなのかもしれない。
あゝ麗はしい距離感(デスタンス)、
つねに遠のいていく風景・・・・・・
―(吉田一穂「海の聖母」)―
そんな風景の中に菜の花の黄色もある。
「菜の花近くありにけり」だった遠い日がある。
すてぱん