隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賎吏に甘んずることを潔しとしなかった。

 

― 中島敦 「山月記」―

 

―― せんせ、「節を屈する」ってどういう意味ですか?
昨日、テスト勉強していた高校二年のジュリが顔を上げてきくから、
―― そうやなあ、おまえらの言葉で言うたら「ポリシーをなくす」ってやつやな。
と答えたら、
――なるほど。
と納得していた。

「なるほど」と納得したはいいが、実際には英語の policy という語は、本来「政策」とか「やり方」という意味であって、そこに「節」とか「節操」の意味は全くない。
もっとも、そんなことは、今の日本の政治家たち(politician)の多くを見ていれば、よくわかることである。

それはさて、なんで、そんなことを聞くのかしらと、開いていた教科書を見ると、中島敦の「山月記」だった。
よいものを読んでいる。
―― どうや、おもろいか。
と訊くと
―― すっごい、スキ!。
と言うのである。
なかなか、たのもしい。

実は、ジュリに限らず、あの小説、言葉は結構難解なようだが、実は高校生の心の深いところを刺激するなにものかがあるらしく、好きだという子が結構多いのである。

と、それはさておき、そんなことがあった今日の昼間、古本屋で新たに手に入れた蘇東坡の詩集を読んでいたら、ドアを叩く者がいる。
誰ならん、と出てみれば新聞の勧誘員であった。
読売新聞、だと言う。

昔はその名前を聞いただけで、何も言わずドアを閉めて、あとは知らん顔をしていたりしたものだが、私も年をとってだいぶマイルドになったので、
「読売はきらいだから取らないことにしているんです」
と、ちゃんと、穏やかに言ってやったのに、その男
「そんなことをおっしゃらずに、ビール券とか、そのほかいっぱいサービスつけますよ」
と、たわけたことを言うので、私、
「あなた」
と、言ってから、ちょいと頭を下にむけて、眼鏡の縁の上からその男の顔をまじまじ見つめながら、
「私のさっき言った言葉、聞えなかったんですか?」
と言って、ドアを閉めてしまった。
まあ、あんまり、マイルドでもない。

というわけで、どうやら私、こと《読売》に関しては、けっして「節を屈する」ことのない男らしいことはわかったんだが、これは、どちらかと言えば私の「policy」に関することであって、私が何事に関しても節操がある、ってわけではけっしてないことは、みなさんご存知の通りです。