飲みほして卓に置くとき軽いなあ
そぞろ身に沁む空き缶の音
大島史洋
オリンピックのメダルは重いらしい。
そうだろうと思う。
青春のすべてを燃やして精進した若者たちにそれは限りなく重いだろう。
たかだかあんなメダルのためにガッパになって・・・
と笑う奴は、小学校の運動会の駆けっこで胸に上級生から一等賞のリボンをつけてもらう誇らしさを知らない奴だ。
(もっとも、そう言う私は6年間で一度もそれを胸につけてもらったことはないのだが。)
今日も塾はお盆休み。
というわけで、午前中、水泳の最終日の様子をテレビで見ていた。
ビールを飲みながら。
女子のメドレーリレーの表彰式を観終わって、二本目が空いた時、思い出したのは今日引用の短歌。
まったく、飲みほしたあとのアルミ缶というのはなんと軽いことだろう!
ところで、大島史洋が「飲みほして」缶の軽さに気づいたときなぜ彼は
そぞろ身に沁む
などとと歌ったのだろう。
たぶんそれは、自分がその人生の大半を飲みほした年齢に達してふりかえってみたとき、ふとその持ち重りのなさへと心が動いたのだろう。
軽い自嘲の思いとともに。
ところで、中国には《鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う》という故事成語がある。
辞書によれば、
【統治者を軽んじて、これを滅ぼし、代わって天下を取ろうとすること。
転じてその人の実力を疑って、地位をくつがえし奪おうとすること。
また、その人の価値・能力を疑うこと】
とある。
この言葉は、中国の春秋時代、周に代わって晋を討った楚の荘王は、ねぎらいに来た周の王の使いに向かって、周王室の宝器である鼎の大小軽重を問うた故事に由来するのだが、問われた使者は荘王に向かってこう言ったそうな。
(王の王たるゆえんは)徳に在りて鼎に在らず。
たぶん鼎のみならず、飲みほした己が人生の軽重など問うべきことではないのだろう。
けれども、何事かに打ちこんで一生けん命やっている若者を見ていると、自分の来し方をかえりみて、思わず
軽いなあ!
などと言いつつ、また一本缶ビールを空けてみたくなる日もまたあるというものです。