あの夏と呼ぶ夏になると悟りつつ教室の窓が光を通す
武田佳穂
九月、夏は終わったはずだが、今日も朝からむしむしと暑い。
今朝の新聞にこんな歌が載っていた。
「短歌研究新人賞」をもらった人の作品だそうである。
歌のよしあしは別にして、もはやこの夏何があったかすらもう思い出せない身にとっては、「あの夏」なんて言葉、なんとも若々しい詠みっぷりだなあ、と思うしかない。
そもそも、私には「この夏」と呼べることさえ起きはしなかったんだろう。
とはいえ、よくよく思い返してみれば、自分にはこんなことを思って過ごした夏なんてなかったのである。
さまざまな《事件》が起こった夏ですら、それがいつか「あの夏」と呼ばれる日が来るだろうなどという予感を抱いたことなんて一度もなかったのである。
だから、この歌には妙な違和感があるのだ。
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
小野茂樹
この歌の「あの夏」はわかる。
人にはそんな夏が一度はあるものだ。
逆立ちしておまへがおれを眺めてた たった一度きりのあの夏のこと
河野裕子
この歌の「あの夏」もわかる。
いずれにしろ、「あの夏」は「一度きり」なのである。
というよりむしろ、それが「一度きり」だからこそ、それは「あの夏」と呼ばれるのだ。
そこには、今だけの時間が流れ、世間も社会も皆消えて「おまへ」と「おれ」しかいなかったはずだ。
「あの夏」は「その夏」で一杯だったはずだし、だからこそ、それは「あの夏」なのだ。
そんな夏なんて、人生に一度だ。
「その夏」が終わったとき、いつのまにか自分の周りにも世間尋常の時間が流れ始め、「おまへ」と「おれ」しかいなかったはずの眩しい世界が、まるでそんなことがなかったかのようなありきたりの日常へと変容していく。
そして、そのとき人は気づくのだ、その夏が「あの夏」だったことに。
人にそれを「あの夏」と呼ばせるもの、それはたぶん喪失の痛みだ。
だが、冒頭の歌はちがう。
あの夏と呼ぶ夏になると悟りつつ教室の窓が光を通す
作者は、あらかじめこの夏が「あの夏」と呼ばれるものになると悟りつつあるというのだ。
彼女は、未来の自分からの視線を先取りし、来たるべき喪失を前もって先取りしている。
それがはたして「あの夏」の名に値する夏のだろうか、という素朴な疑問は、だが、あたらないのかもしれない。
彼女のみならず、私たちの若かったころと比べて、今の若者たちは、無意識の深いところであらかじめ気づいているような気がするのだ、今起きているすべての事柄が、実は今だけのものであって、それらはやがてすべて失われるものであることに。
あらざらむこの世の思ひ出にいまひとたびのあふこともがな
わすれじの行末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな
未来の視線の先取りめいたものは百人一首にだってある。
それぞれの歌に蛇足ながら訳をつけておけば、
(私が死んでしまって、この世ではないほかの世界に行っしまったとき、私がこの世に生きていたことのもっとも痛切な証しであるあなたとの恋を思い出すために、私はもう一度、もう一度あなたにお会いしたいのです)
(「いつまでも忘れないよ」とあなたはおっしゃってくれたけれども、そんなことは信じられない、だから、私は、この私の命が、あなたがそうおっしゃってくれたこんなうれしい今日という日限りで尽きるものであってほしいのです)
というくらいのことになる。
ところで、この二首、ともに「もがな」という、《その物や事柄を強く願い望む》ことを示す終助詞で終わっていることが象徴的に示しているように、視線は未来から借りてきながら、その視座はあくまで現在に在る。
未来からの視線は、現在の欲望を正当化するために持ち出されたものだ。
けれども、冒頭に引用した歌の作者は、そうは歌わない。
「教室の窓が光を通す」ように、未来から見た現在の像を淡々と受け入れている。
だからこそ彼女は「思ひつつ」ではなく「悟りつつ」という言葉を使うのだろう。
そして彼女は、その夏が、喪失を伴うほんとうの「あの夏」になる前に、いつか「あの夏」と呼ばれるものになるであろうという予感をすでに抱きながら、一方でそれを受け入れてしまう不幸をも「悟りつつ」いるのかもしれない。
なぜなら、喪失をあらかじめ知ってしまっていることは、ほんとうの喪失とその痛みをあらかじめ喪失していることだからだ。
そして、たぶん、彼女は知っているのだろう、未来からの視線を受け入れるということは、現在が絶え間なくあらかじめ失われてしまっていくことなのだ、ということも。
たぶん、彼女のみならず、今の若者たちは私たちの若かった頃よりもはるかに多く未来に侵食された現在を生きているのだろうと思う。
それが不幸なことかどうかは知らない。
あの夏の
数かぎりなき
そしてまた
たつた一つの表情をせよ
だからと言って、べろ出しかよ!