みみ しふ と ぬかづく ひとも みわやまの
この あきかぜ を きか ざらめ や も
― 会津八一「自註鹿鳴集」 ―
この歌の前には
三輪の金屋にて路傍の石仏を村媼(そんおう)の礼するを見て
という詞書きが付いている。
ついでに自註を引くなら、その最後に
みみしふ・耳聾(ろう)す。
盲人を「めしひ」といふが如し。
とある。
仮にその意味を書いてみれば、
《耳が聞こえなくなったと石仏の前に額(ぬか)づいているこの媼(おうな)の耳にも、今三輪山を吹くこの秋風の音が聞こえないことがあろうか、いや聞こえているにちがいない。》
ということになろうか。
この歌について、
耳の遠くなったこの老媼がなぜ秋風を聞くことができる、などといえるのか、
と言う人がいるなら、たとえば、みんなが知っている
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
という古今集・秋の巻の初めに出てくる歌の中の、この「風の音」とは実際に耳に聞こえた音なのかしら、と問い返すしかないだろう。
目に見えぬ風だからこそ、私たちは皮膚に感じられるわずかなそよぎにもその「音」を聞きとるのだ。
それは、なにも私たちだけではない。
同じく八一の
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
をゆび の うれ に ほの しらす らし
という歌を読めば、木に彫られた仏もまた、そのほそやかな小指の先に初夏の風を聞いていることがわかる。
(それにしても、これはなんというすばらしい歌だろう!)
今日から九月。
夏休みも終わって、久しぶりにのんびりした朝、開け放ったまどから心地よいすずしい風が部屋の中を吹きぬけていく。
吹く風を 秋と知りてか
目をつむる 猫もときをり 耳を動かしつ