(米陸軍のマーシャル准将が)第二次大戦中、日本やドイツで接近戦を体験した米兵に「いつ」「何を」撃ったかを聞いて回った。
驚いたことに、わざと当て損なったり、敵のいない方角に撃ったりした兵士が大勢いて、姿の見える敵に発砲していた小銃手は、わずか15~20%だった。
いざという瞬間、事実上の良心的兵役拒否者が続出していたのだ。

 

― デーブ・グロスマン 「戦場に立つということ」(9・9 朝日新聞 )―

 

先日(9/9)の新聞のインタビュー記事で、冒頭の引用部分を読みながら、
そうだったのか、
と思った。

敵兵を目の前にしながら撃たなかったのは、なにも「俘虜記」を書いたフィリピンでの大岡昇平だけではなかったのだ。
あるいは西洋の決闘場面でよく出てくる、空に向かって発砲する男たちもまた、少数派ではなかったのであろう。
それは少数派に見えながら、むしろ、「撃たない」ことが人間の本性の自然であるらしいのだ。

冒頭に引用した言葉に対して、なぜ、そんなことが起きたのかと問うインタビュアーに向かって、グロスマン氏はこう答えている。
(ちなみに、グロスマン氏は、1956年生まれの米陸軍退役中佐で、今は「殺人心理学研究所(!)所長」なんだそうである。)

同類殺しへの抵抗感からだ。
それが人間の本能なのだ。
多くは至近距離で人を殺せるように生れついていない。
それに文明社会では幼いころから、命を奪うことは恐ろしいことだと教わって育ちますから。

と答えている。

そうなのだろう。
荒夷(あらえびす)と呼ばれた、文化果てる地・東国の生粋の戦士であるはずの熊谷次郎直実ですら、目の前にした敦盛を殺す時には、
「いづくに刀を立つべしともおぼえず」
と言っているではないか。
人は至近距離で人を殺すように生れついていない。

さて、それでは戦場とはどのようなところなのか。

自分はどこかおかしくなったのか、と思うようなことが起きるのが戦場です。
生きるか死ぬかの局面では、異常なまでのストレスから知覚がゆがむことすらある。
耳元の大きな銃撃音が聞こえなくなり、動きがスローモーションに見え、視野がトンネルのように狭まる。
記憶がすっぽり抜け落ちる人もいる。
実戦の経験がないとわからないでしょうが。

映画「マトリックス」の世界は、戦場の常態なのかもしれない。

ところで、冒頭に引用した15~20%という発砲率の低さは軍に衝撃を与え、訓練を見直す転機になったという。
そこで、

まず射撃で狙う標的を、従来の丸型から人型のリアルなものに換えた。
それが目の前に飛びだし、弾が当たれば倒れる。
成績がいいと休暇が3日もらえたりする。
条件付けです。
刺激―反応、刺激―反応と何百回も射撃を繰り返すうちに、意識的な思考を伴わずに撃てるようになる。
発砲率は朝鮮戦争で50~55%、ベトナム戦争で95%前後に上がった。

なんとも、おそろしいが、これが事実らしい。

たぶん、宗匠に聞けばたしかなのだろうが、武道の――というか武道に限らずあらゆるスポーツにおいてもそうなのであろうが――の稽古とか、訓練と呼ばれるものは、「意識的な思考を伴わず」に体が動くことを目指してやるものなのであろう。
だから、戦場における射撃の訓練もまたそういうものである、と言ってしまえば、そうなのかもしれない。
しかし、それが、まちがいなく「人を殺す」ために行なわれる、ということに、違和感を感じるのは私だけではあるまい。
(ちなみに武道の稽古はあくまでも「身を守る手段」としてのそれであるはずだ)
けれども、グロスマン氏はこう断言する。

心身を追い込む訓練でストレス耐性をつけ、心理的課題もあらかじめ解決しておく。
現代の訓練をもってすれば、我々は戦場において驚くほどの優越性を得ることができる。
敵を百人倒し、かつ我々の犠牲はゼロというような圧倒的な戦いもできるのです。

さらに、彼はそのような兵士たちが受ける心的影響を次のように述べている。

 

敵を殺した直後には、任務を果たして生き残ったという陶酔感を感じるものだ。
次に罪悪感や嘔吐感がやってくる。
最後に、人を殺したことを合理化し、受け入れる段階が訪れる。
ここで失敗するとPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症しやすい。

PTSDにつながる要素は三つ。
① 幼児期に健康に育ったか。
② 戦闘体験の衝撃度の度合い。
③ 帰国後に十分なサポートを受けたか。
たとえば、幼児期の虐待で、すでにトラウマを抱えていた兵士が戦場で罪のない民を虐殺すればリスクは高まる。

国家は無垢で未経験の若者を訓練し、心理的に捜査して戦場に送り出してきた。
しかし、ベトナム戦争で大失敗をした。
徴兵制によって戦場に送り出したのは、まったく準備のできていない若者たちだった。
彼らは帰国後、つばを吐かれ、人殺しとまで呼ばれた。
未熟な青年が何の脅威でもない人を殺すよう強いられ、その任務で非難されたら、心に傷を負うのは当たり前だ。

防衛のための戦う場合と他国に出て戦う場合で、兵士の真理に違いはないのか、という問いに対して、氏は「ある」と答えたあとに、こう言っている。

(他国に出て戦う場合でも)成熟した志願兵なら、たとえ戦場体験が衝撃的なものであったとしても、帰還後に社会から称賛されたりすれば、さほど心の負担にはならない。
もし日本が自衛隊を海外に送るならば、望んだ者のみを送るべきだし、望まない者は名誉をもって抜ける選択肢が与えられるべきだ。

アメリカがなぜ、原爆投下を「必要」だったと言い張らねばならないのか、理由がわかるような気がする。
すくなくとも、第二次大戦の退役軍人が生きている間は、あの国はそう言い続けねばならないのだろう。

我々がベトナム戦争で学んだことがある。
世論が支持しない戦争には兵士を送らない、という原則です。
国家が国民に戦えと命じるとき、その戦争について世論が大きく分裂していないこと、そして、もしも兵を送るなら彼らを全力で応援すること。
これが最低限の条件だと言えるだろう。

 

さて、今副大統領さえ逃げ出したという、内戦が続く南スーダンに自衛隊はPKO活動で出かけている。
世論が分裂したままの去年の安保法制の強行採決で、彼らは武器使用ができることになった。

ほんとうに、人は人を撃てるのか。
それでも、人は平気でいられるのか。
私にはわからない。
わからないまま、金曜日から、ずっとこのことについてさまざまに考えてきたが、やっぱりうまくわからない。
とりあえず結論は書かないまま、グロスマン氏の話だけを載せることにした。