われわれの痛みは、われわれがそんなふりをするときしか、重大で深刻にならない。

 

―フェルナンド・ペソア 「不安の書」(高橋都彦 訳)―

 

・・・・などと、澄ましている場合ではないのである。
ペソアのいう「痛み」は心の痛みのことであろう。
しかし、体の痛みは、痛いのだ、ということを本人が忘れていても、ひょいと体を動かすと勝手に痛みが走るものなのである。

ぎっくり腰になった。
ともかく、これは、そんな「ふり」をしていなくても、痛いのである。
心の痛みと体の痛みはちがうのである。

日曜日の朝、椅子にすわって、新聞を読んでいたとき、コーヒーを飲もうと手を伸ばしたら、そいつが不意にやってきたのである。
「おーとっと!」
などと言ってはいけない。
「なんで?」
などと大声で問うてもいけない。
なにせ、声を出すだけで激痛が走るのである。
体の中の筋肉というものがどんな風につながっているのかは一向不明だが、何のかかわりもなさそうなところに力を入れても、いきなりびびびっと腰に来るのである。
立つ、などというのは論外である。
ただ、ひたすらひたすら同じ姿勢でじっと椅子にすわっているだけである。

しかし、しだいに腹が空いてくるのである。
コーヒーも飲みたいのである。
しかし、台所なんぞ行けないのである。
それから トイレもそろそろ心配である。
しかし、身動きできない。

ああ、気がついたらやかんを提げてトイレに入ってしまっていた、という、そんな昔もあったけ!
そんなふたつのことを、いっぺんにできるなんて、要は、あの頃、私は、健康だったのだ!!
ああ、なつかしい・・・

などと、馬鹿げた感傷にひたっている場合ではないのである。
痛みに耐えて腕を伸ばし、机の端にあるケータイに手にとる。
こんなときは、世話好きな女の人であるなるみさんや山田さんに頼るのが一番なのだが、なにせ彼女たちでは遠すぎる。
真君に電話をする。
さいわい、彼は、日曜だというのにデートの約束もなく、部屋でレポートを書いているところだという。
「悪いが、来てもらえないかな。」
ささやくように言うと(なにせ大声は出せない)
「いいですよ」
二つ返事である。

やって来た彼にコーヒーを入れてもらい、人心地がつく。
飯も炊いてもらい、おかずを買ってきてもらう。
鎮痛剤も飲ませてもらう。
(プラスチックのケースから錠剤を押し出すことも痛くてできないのである。
ヒドイもんである)

人がそばにいるだけでなにやら心強い。
というわけで、なんだか元気になってくる。

鎮痛剤も効いてきたようなので、立ってみることにする。
真君の手を借りると、かえって変なところに力が入って痛いので、机につかまり一人そろそろと立ち上がる。
そして、腰を曲げたまま、足を少しづつすべらせて移動する。
そうすることしかできないのである。
いうてしまえば、横綱の土俵入りのせり上がりのようなもんであるが、私の方のそれは力強さのかけらもない。
いやはや。

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と、ここまで書いて、台所の椅子に座って休んでいたら、ドアが開いて、俊ちゃんが来た。
久しぶりに、いっしょに昼飯でも食べようと誘いにきてくれたのであるが、いきなり
「どした?」
と聞かれたのは、よっぽど、私、しんどい顔をしていたんだろう。
「ぎっくり腰」
と答えると
「オレ、痛風」
と言って、足を指さす。
見れば、右足は靴を履いているのに、左足はサンダルである。
二週間前からだそうな。

それにしても、教え子と二人、痛み談義にふけり、相憐れむ日がこようとは!

とほほなこと、でございます。