わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと

 

                                         人には告げよ あまの釣舟

 

                                        参議篁

 

参議篁(さんぎ・たかむら)。
本名は 小野篁(おののたかむら)。
「参議」というのは、太政官の中で、大納言・中納言に次ぐ地位で、今で言ったら国務大臣クラスのひとです。

この人は、9世紀の前半を生きた人ですが、その時代、文章(当時においては「漢文」のことですよ)において右に出る者がいない、といわれた人です。

 

ところで、どうでもいいことですが、あなた、これをなんと読むかわかりますか?

 

子 子 子 子 子 子 子 子 子 子 子 子

 

「子」の字が十二個。
これはですね、当時の嵯峨(さが)天皇が、出されたなぞなぞです。
天皇は、小野篁に向かって
「おまえは、書かれたものは何でも読めると言ったが、これはどうじゃ、読めるか」
と言ったわけです。
これを、ですね、篁さんはですね、 あなたみたいに
「ココココココ・・・・・」
と鶏の鳴き声みたいには読まないで、
「ネコのココネコ、シシのココジシ」
(猫の子、子猫、獅子の子、子獅子)
と読み解いたというのです。

たしかに【子】という字は「ネ」とも「コ」とも「シ」とも読みますもんね。
だから、どうした、ってこともないのですが、その答えに、嵯峨天皇もにっこり・・・・・という話が、「宇治拾遺物語」に載っています。

話の題名は「小野篁、広才のこと」となっていますので、要は、この人は博識だったという事なのですが、これは「博識」といわんよりは、むしろ、機智頓才の話でしょうか。

 

さて、そのタカムラさん、838年、遣唐副使に任ぜられたのですが、遣唐大使の人と、乗る船のことで喧嘩になった。
大使の船が壊れたから、船を代われと言われたんです。

頭に来たタカムラさんは、結局病気になったと言って、遣唐使の船に乗りませんでした。
それだけならまだしも、そのあと、遣唐使の制度そのものを批判するような文章まで書いた。

それが、嵯峨天皇の逆鱗に触れたんですな。
彼は、隠岐の島に島流しということになったんです。

その時、彼が歌った歌がこれです。

 

「わたの原」の「わた」は「」のことです。
で、「わたの原」は「広々とした大海原」。

 

「八十島かけて」の「八十島」は「八十の島」という意味ではなくて「たくさんの島」という意味です。
「十」という字は「そ」とも読むことは知っていますね。
〈三日〉は「みか」といいますし、たとえば〈四歳〉は「よじ」です。
ちなみに、千葉の駅前にもある「ごう」というデパートは、もともとは「合呉服店」という呉服屋さんが、その前身でした。

 

「かけて」の「かけ」は下二段動詞「掛く」の連用形で、ここでは「目がけて・目指して・目標にして」という意味です。

 

漕ぎ出でぬと」の「ぬ」は引用の格助詞「と」の前ですから、終止形。
したがって「ぬ」は完了の助動詞ですから「漕ぎ出して行ったと」という意味になります。

 

「人には告げよ」の「人」は不特定な人々ではなく、特定の人のことです。
奥さんでしょうか、お母さんでしょうか(彼はたいへんな親孝行で有名でした)。

 

「あまの釣舟」の「あま」は「海人」と書いて、漁師のことです。
沖縄ふうに言えば「海んちゅ」ですな。

 

彼が流されることになった隠岐の島は日本海にありますが、罪人を乗せた船は、まず、難波(なには)の港(大阪)から、瀬戸内海を西に向かいます。
瀬戸内海にはたくさんの小さな島々が沢山あり、まずそこに向かって、船は出ていくのです。

彼を乗せた船は、たぶん、周りに散らばる「あまの釣舟」に比べたら大きかったに違いありませんが、遣唐使船さえ、難破するような当時の船旅を思えば、さいはての島、隠岐に流される彼の思いは、どんなものだったか。

凪いだ海では、漁師たちの小さな釣舟が、何事もなかったかのように漁をしています。
そんなふうに、何事も昨日と変わらぬように暮らしている彼らの姿は、流されてゆく彼にとって、いっそう流離の憂いを抱かせるものだったにちがいありません。

その釣舟に、彼は呼びかけているのです。

 

「大海原を、私は、あのたくさんある島々の方を目指して、漕ぎ出していったと、伝えておくれ、あまの釣舟よ。都に残したあの人に!」

 

万感胸に迫る思いをストレートに述べながら、ぴんと調子の張った歌ですね。
実際には、水夫(かこ)たちが船を漕いだのであって、彼が漕いだわけでもないのでしょうが、思いを断ち切るかのように、自ら「漕ぎ出でぬ」と言い切った言葉が、その男らしくぴんと張った背筋を感じさせているのだと思います。

とてもよい歌ですね。

 

ちなみに、小野篁は、二年後許されて、都に返り、朝廷の要職に復帰します。
そして、852年、50歳で亡くなりました。
 

大海原 島々さして わたくしは

 

       漕いで行ったと 告げよ、釣舟