君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ
光孝天皇
光孝天皇(こうこうてんのう)。
「筑波嶺の」の歌を詠んだ陽成院の次の天皇です。
十七歳で退位した陽成帝に代わって即位した時、この方は、五十五歳でした。
彼は三年後、天皇まま亡くなりましたから、名前は光孝「天皇」です。
この人が、天皇になれたのは、もちろん、あの藤原基経(高子のお兄さん)のおかげでしたから、政治の一切は基経に任されることになりました。
これが「関白」の始まりです。(と、「日本史」では覚えなければなりません)
つまり、この天皇は、藤原氏が「摂関政治」を確立させた時の天皇なのです。
さて歌を見ていきましょう。
古今集には詞書きがあって、そこには、この方がまだ「みこ」だった時に、人に若菜を贈った時の歌だ、と書いてあります。
天皇ではなく、まだ若かった皇子の頃の歌です。
歌はちっともむずかしくありませんね。
何の技巧もない、素直な歌ですね。
この方、飾り気のないお人だったのでしょうね。
君のためにね、若菜を摘んであげようと、春の野に出てみたらね、
雪がね、雪が、ぼくの袖に、幾ひらも幾ひらも降りかかって来たよ。
(そうやって、摘んできたんだ、きっとおいしいよ)
「つつ」は「動作の反復を表す」副助詞でしたね。
だから、雪は、次々に袖にふりかかるんです。
でも、春の淡雪ですもの、散りかかるそばから消えていったんでしょうね。
ところで、この天皇のことが、「徒然草」に出てきます。(第百七十六段)
短いので、そこに書かれていることを現代語に訳しておけば、
宮中に「黒戸」という部屋があるが、それは、この方が天皇になられた後、昔、「ただ人」(つまり彼が天皇ではなくまだ臣下)だった頃に御自分で料理をなさっていたことをお忘れなさらないで、いつも料理をなさった部屋だった。
だから部屋がすすけて黒いので「黒戸」というのだ。
この方、自炊なされた天皇だったというんです。
雪に袖を濡らしながら、若菜を摘んだ方らしいエピソードでしょ。