人はいさ 心も知らず ふるさとは

 

  花ぞ昔の 香に匂ひける

 

 

                          紀貫之

 

紀貫之(きのつらゆき)。
言うまでもなく、『古今集』に「仮名序」を書いたその代表編者ですね。
その『古今集』に採られている彼の歌は九十六首。
『古今集』は全部で千百首の歌が載っているんだけれど、その約一割は彼の歌なのです。
要は、彼は、この時代の歌の代表選手だということです。

それに、君はもう彼の書いた「土佐日記」だって教科書で習ったことがある。
なんとなく、どんな人だったかはわかるはずです。

 

おまけに、百人一首のこの歌も、中学校の国語の教科書に載っていた。

 

というわけで、何にも解説は要らないだろうが、まあ、それじゃあ、さびしいから、書いてみましょう。

 

「ひとはいさ 心もしらず」

この場合「ひと」は「あなた」の意味ですね。
「いさ」は「さあ、いかがなもんでしょう」です。

 

あなたの方は、さあ、どんな気持ちでいるのか、わかりませんね。

 

「ふるさとは」 この時代の「ふるさと」は今の「故郷」という意味ではりませんでしたね。
たびたび通いなれた土地、昔なじみの土地、ということです。

 

「花ぞ昔の 香に匂いける」

この場合の「花」は「梅」の花です。

 

古今集で、この歌にはこんな詞書が付いています。

 

初瀬に詣づるごとにやどりける人の家に、久しくやどらで、程へて後にいたれりければ、かの家のあるじ 「かくさだかになむやどりはある」 といひ出だして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる

 

(長谷寺に参詣するごとに宿をとっていた家に、しばらく泊まることもなく、だいぶ経ってから行ってみると、そこの主人が 「このように昔どおりにちゃんと家はありますよ」 と、召使いの子どもか何かを使って言ってよこしたので、そこに立っていた梅の枝を折って、それに歌をつけておくった)

 

桜の花はその匂いを歌われることはあまりありませんが、「梅」はその匂いが歌われます。
けれど、その匂いは沈丁花や木犀なんかに比べれば、はるかに淡い。
たぶん昔の人は、私たちよりずっと匂いに敏感だったのでしょう。
照明が今ほど発達していない時代、闇の中できたえられた、音や匂いに対する感覚は私たちよりはるかに研ぎ澄まされていたように思います。

 

さてこの「やどのあるじ」が男か女かは書いてありませんが、これを貫之がかつて親しく通った恋人の家だと取ると、

「かくさだかになむやどりはある」

という言葉は

「家と同じく、私も昔と変わらずあなたのことを思っておりましたのに」

と、久しく訪ねて来なかった貫之を軽く責めたことになる。
で、責められた貫之さん、そこにある梅の枝を折って

「え、ほんとにそうなの?
たしかに、この見慣れたふるさとで、梅の花だけは昔ながらに私を歓迎してくれてはいますがね」

と歌を返した。

ここでは「花ぞ」の「ぞ」という強意の係助詞が実に効いていますね。

女の方が、ちょっと拗ね言を言ってみせて、男の方が、それに対して「ほんとかな?」などと応酬してるんですが、なんだか二人とも愉しそうです。

そういえば、前の歌では藤原興風さんは
「松も友達じゃない!」
って言っていたのに、
貫之さんの方は、
「梅は友達だ!」
って言ってる。
おんなじ木なのにね。
定家さん、そんなところもおもしろがって、この二つの歌を並べたのかもしれないね。

ところで、君にとっては、中学時代毎日通った「ひまわり荘」だって、昔風にいえば「ふるさと」になるわけですから、貫之のこの歌は、君がたまにやって来る時の、こんな歌に訳せます。

 

 

先生は さあ、わからない けどヤギは

 

 

     昔の声で ニャゴニャゴ歓迎