滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそながれて なほ聞えけれ
大納言公任
大納言公任(だいなごん・きんとう)。
藤原公任。
この人のこと、『大鏡』に「三船(さんせん)の才(ざえ)」という話で載っている。
ある年、道長が大井川で川遊びをした。
その時、舟を、「作文(さくもん=漢詩)のふね」・「管弦のふね」・「和歌のふね」に分けて、その道の達人たちを乗せた。 そのときこの大納言(つまり公任さん)がやって来たので、道長が
「かの大納言、いづれのふねにかのらるべき」
(あの大納言どのは、どの船に乗られるのが適当なんだろうか) とおっしゃったので、公任さんは 「和歌の舟に乗りましょう」 と言って、すばらしい歌を詠んだ。
でも、あとになって
「作文のに乗るべきだったなあ」
と言った、
ということが書いてある。
つまり、道長が
「かの大納言、いづれのふねにかのらるべき」
と言ったいうのは、この大納言が、漢詩、音楽、和歌、いずれの道にも長じていたということなんですな。
要はそういう文化人だったわけです。
ちなみにこの人の没年は1044年。(生年は966年)
時代は、いよいよ11世紀に入って来ました。
さて、歌は、なんてこともない歌です。
詞書は
大覚寺に人々あまたまかりたりけるにふるき滝をよみ侍りける
(大覚寺に人々がたくさんで行った時に古い滝を詠んだ)
とある。
なんでも、大覚寺は嵯峨天皇の離宮があったところで、天皇はそこに滝を眺める御殿である滝殿を作ったらしい。
人工の滝だったんでしょうかねえ。
もっとも、嵯峨天皇は9世紀の人だから、公任の時代から隔たること百数十年。
今でいうなら、明治維新の頃の話だから、その滝も昔日の面影がなくなってしまっていた。
歌を訳してみれば、こうなる。
滝の音は、もう途絶えて久しいが、
その名は今も昔のままに人々の耳に流れ、
その音は胸に響いているよ。
前にも書いたように、ほんとになんでもない歌です。
たぶん「三船の才」を謳われたこの人には、もっといい歌があるはずです。
でも、定家さんは、この歌を選んだ。
それは、実は、彼が、この歌をどうしてもここに置きたかったからじゃないかなあ。
それと言うのも、この前の歌が儀同三位母の歌だからです。
伊周、道長の時代から二百年後を生きた定家にとって、母親が
行末までは かたければ
と歌ったこの一族の行末が、どこか
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
という、この歌に響くように思われたのではないだろうか。
そうでありながら、しかし、その一族の生きたようすは、『枕草子』の中のさまざまなエピソードや物語、あるいは歌の中に、いきいきと、いまもなお、生きている。
それこそ、まさに、
名こそ流れて なほ聞こえけれ
である、という感慨があったのではなかったろうか。
滝の音は 絶えて長らく たつけれど
その名は響く 今の世までも