忘れじの 行く末までは かたければ
今日をかぎりの 命ともがな
儀同三司母
儀同三司母(ぎどうさんしのはは)。
「儀同三司」というのは
《儀礼の格式は三司(太政大臣・左大臣・右大臣)と同じという意味》
だと辞書に書いてありました。
まあ言うなれば、「准大臣」ということで、ここでは、あの『大鏡』の中で、無辺世界に矢を射てしまったと書かれてしまっていた「帥殿」、すなわち藤原伊周(これちか)を指しています。
この人は、そのお母さんというのですから、伊周だけではなく、清少納言が仕えた中宮定子、あるいは『枕草子』の中の「くらげの骨」の章段に出てきた中納言藤原隆家の母親でもあります。
ということは、彼女、前回の「なげきつつ」の歌を歌った女性が兼家と結婚した時、すでに生まれていたと書いた「中の関白殿」藤原道隆の奥さん、ということになります。
歌の詞書に曰く、
中関白かよひそめ侍りけるころ
つまり、彼女と藤原道隆との恋が始まったばかりの頃の歌ですね。
「わすれじの」。
《じ》は打ち消しの意志を表す助動詞ですね。
ですから「わすれじ」は
「いつまでもけっしておまえのことをわすれはしないよ」
という、誓いの言葉です。 もちろん、言ったのは男です。
「行末までは かたければ 今日をかぎりの」。
《行末までは》…「遠い将来までは」
《かたければ》…「頼みにしがたいので」つまり「あてにできないので」
《今日をかぎりの》…「今日が最後であるような」「今日で終わりになる」
「命ともがな」。
《もがな》は例の「願望の終助詞・三兄弟」でしたね。
ですから
「命ともがな」は
「命であってほしい!」
というわけで、歌全体を訳してみれば、
あなたはおっしゃいました、
「おまえのこと、ずっとずっと忘れずに大事にするよ」と。
うれしかった。
ほんとにうれしかった。
でも、そんなこと、信じられない。
いつか、あなたに忘れられる日が来るに決まっています。
だから、だから、
私は今日のうちに死んでしまいたいのです。
私の命が、
こんなにもあなたに愛されて
こんなにもしあわせな今日限りの命であってくれればと思うのです。
これが、恋の始まりの頃の歌です。
ありえますか?
ありえないでしょう。
もちろん今だって、好きな男にはじめて愛された夜、あまりにしあわせで、これがいつまで続くのかしらという不安がふと女の胸をよぎるのは普通のことなのかもしれない。
けれども、ここでは、いつかこの男に忘れられる日が来るということが、かすかな「不安」としてではなく、ほとんど「確信」として歌われている。
男の愛を得た歓びを歌いながら、そのかげに、待つだけの存在でしかありえなかった当時の女の深い哀しみが蔵されている。
歌は、その歓びと哀しみを同居させながらゆるまない。
この人、きっとかしこい女の人だったんだろうなあ。
それはさて、娘を入内させ、自らは関白として権力の絶頂にあった夫・藤原道隆が亡くなった後、彼の弟である道長との権力争いに敗れ、息子である伊周、隆家が失脚し、没落していく彼女の一家のことを思うと
行末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
という、この歌の言葉が、別の意味でしみじみと感じられたりもする。
「いつまでも」と 誓ってくれた しあわせな
今日を命の 終わりにしたい