なげきつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くるまは
いかに久しき ものとかは知る
右大将道綱母
右大将道綱母(うだいしょう・みちつなのはは)。
この人「蜻蛉日記」の作者として有名ですが、この歌もまた、その日記の中にも出てきます。
この人の妹は菅原孝標に嫁いでいるから、あの「更級日記」の作者は、この人の姪にあたります。
さて、彼女の夫は、後に摂政・太政大臣になる藤原兼家。
道長さんたちのお父さんですね。
彼女は十九歳の時、二十六歳のこの青年貴公子・兼家に求婚され、結婚しました。
もっとも、この時、兼家には、一番目の妻との間に長男の道隆がすでに生まれていて、
(道隆は、君のこの前の試験範囲だった『大鏡』の中で「中の関白殿」と呼ばれていた、伊周の父親のことです)
つまり、彼女は、兼家の二番目の妻だったわけです。
当時の結婚形態は一夫多妻の妻問い婚で、とくに上級貴族の男たちが複数の妻を持つことは普通だったし、父親が受領(ずりょう=地方の国司)階級の娘にとっては、これはまさに玉の輿の結婚だったと言っていい。
実際、日記の中でも、彼女は、時姫という名の彼の第一夫人には、さほど嫉妬の感情を見せてはいない。
美貌で、「歌の上手」(『大鏡』)だったという自分の方が、兼家の心をつかんでいるという自信があったのかもしれない。
けれども、翌年、彼女が道綱を出産した頃から、事態が一変する。
兼家に新しい女が出来ちゃったんですな。
彼女は兼家がその女に宛てた手紙を文箱の中から見つける。
今でいえば、旦那のメールを盗み読んだみたいなもんですな。
問い詰めても、男の方は、しれっとしてしらばっくれる。
男のあとを召使につけけさせて、その女が「町の小路のそこそこになむ」住んでいることがわかる。
さればよと、いみじう心憂しと思へど、言はむやうも知らであるほどに、二,三日ばかりありて、
(やっぱりそうだったのね、と、とても情けなくやりきれない思いでいても、どう言ってやればいいのかわからないでいるうちに、二、三日ばかりして)
とかかれたあとに、この歌が歌われる場面が日記に出てきます。
暁方(夜が明ける前、でしたね)、門をたたく音がする。
あの人だ、とは思うのだが「憂くて」(やりきれなくて)、開けさせずにいたら、そのうち牛車があの女の家のある方へ行く音がする。
翌朝、このまま黙ってもいられないと思って
なげきつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
といつもより、改まって書いて、そこに「うつろひたる」(色のあせた)菊を付けておくった・・・。
とまあ、こんなわけですよ。
歌の意味を書くなら
いつまでも来てはくれない嘆きを、
何度も何度も胸の中でかみしめながら、
不実な方を待ちつづけて独り寝をする者にとって、
夜が明けるまでの時間が、どんなに長いものか、あなたは御存知でしょうか。
(いいえ、門を開ける間も待てないあなたなんかにはきっとおわかりにならないのでしょうね。)
プン、プン!
こんな歌をおくるのは、言うまでもなく、彼女が相手の男に惚れているからである。
彼女は毎日彼と一緒にいたいのである。
だから、待ち続けている。
でも、男の方はこの歌に対して、
いとことはりなりつるは。
(いや、まったく、あなたの言う通りだよな。)
などと、言いながら、それでも、その後もその女のところに通う。
うーん。
そんなことが許されるの?
とあなたは思うかもしれないが、それに対抗するすべを当時の女性は持っていない。
なにしろ、恋において、女は常に男の訪れを待つだけの受け身の立場にしかなかったのだから。
男の愛を自分ひとりにつなぎとめたい、なんて願うことは、「非常識な」願いだった。
でも「蜻蛉日記」を書いたこの人は、そんなことが許せなかった。
「私の方だけ向いて」と男に求める。
そして、そのことを、歌にし、男におくる。
けれども、いかに美貌であれ、いかに歌の才能があれ、自分の方だけを向いてくれと要求する女は、当時の一夫多妻を常識とする男たちにとって、融通の効かない、すこし可愛げのない女に見えたのだろうなとも思う。
その中で、彼女は深く傷ついていく。
やがて、彼女は自分の息子だけが自分の生きがいになっていく。
「蜻蛉日記」を読むと、男である私はなんだか、しんどくなってしまう。
嘆き寝の ひとりの夜の 明けるまで
どんなに長いか あなた知ってる?