明けぬれば 暮るるものは 知りながら

 

   なほうらめしき 朝ぼらけかな

 

 

             藤原道信朝臣

 

 

藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)。
この人は太政大臣為光という人の息子。
この人も二十三歳の若さで早世している。

 

歌は、前の歌とうってかわって、わかりやすい。
若くして亡くなった人の歌はわかりやすい、というわけではあるまいが。

 

夜が明けたら、やがてそのうち日が暮れることは知っている。
それでも、やはり、うらめしい朝ぼらけである。

 

朝ぼらけが、恨めしいのは、起きて、学校や会社に行かなければならないから、では、もちろん、ない。

 

この歌の詞書に曰く

 

女の許より雪降り侍りける日かへりてつかはしける

 

つまり、これは、後朝(きぬぎぬ)の朝の歌なんですな。

 

若い男女が一夜を共にした朝、すぐにまた次の夜が来て、相手の人に会えるとはわかっていても、二人にとって、今二人だけでいるこの一瞬一瞬が、まさに生きている証しのように思えて、別れるのがつらい。
それは、この十世紀の日本でも、あるいはあの「ロミオとジュリエット」が生きたという十四世紀イタリアのヴェローナでも、そして、ニ十一世紀の現代においても、世界中、みな同じことなんだろう。

つまり、世界中の恋人たちにとって、昔も今も、朝ぼらけは恨めしいものなのだ。

この歌、そのことを三十一文字で歌った歌なんだ、と思えばいい。

だから、愛唱されてきたんだろう。

そうそう、少し趣はちがうが「雪の朝の後朝」といえば、北原白秋にこんな歌がある。

 

君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとく降れ

 

この歌では、男の家を訪ねてきた女を、朝、男が見送っている。
王朝時代とは逆だね。
とはいえ、真白な雪を「さくさくと」踏んで帰る彼女に、「さくさくと」林檎を噛む時匂い立つ香り(それは昨夜彼女の体からほのかに立ち上った匂いかもしれない)を重ね合わせ、 《雪よ林檎の香のごとく降れ》 と歌う時、この恋が、とてつもく澄んできよらかなものだというイメージが無条件で広がってくる。

 

いい歌だなあ。

 

こんな歌を引用したあとでは、とてつもなく気がひけるが

 

 

今夜また 君に会えると 知りながら

 

  やっぱりつらい 朝の別れよ