かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ
さしも知らじな 燃ゆる思ひを
藤原実方朝臣
藤原実方朝臣(ふじわらのさねかた・あそん)。
この人、「枕草子」にも登場してくる。
(この百人一首も、時代はそんな時代になって来ました)
清少納言の恋人だった、なんて話もあるらしいが、「枕草子」を読む限りは、そんな感じはしない。
でも、彼が、生き生きと宮中の生活を楽しんでいる感じはよく伝わる。
まあ、ともかくエピソードの多い人で、もっとも有名な話は、「三蹟」の一人として、来年あなたが日本史でその名を覚えなければならない藤原行成という人の冠を、実方が清涼殿で地面にたたきつけたのを、たまたま目にした一条天皇が彼を陸奥守に左遷した、というものです。
その時天皇が言ったという言葉が、
「歌枕、見て参れ!」
いいですな、これ。
実は、私、この言葉、好きなんです。
「歌枕、見て参れ!」
気持ちいい。
こんなことばを言われたのも、実方が、歌人として認められていたからでしょうし、一方当時の一条天皇時代の宮中の文化的な雰囲気もよく伝わるエピソードのように思う。
もっとも、彼が陸奥守になったのは左遷ではなかったというのが、ほんとうのことらしい。
その証拠に、このとき位も一つ上にすすめられているそうです。
さて、歌に入りますが、これはなまなかの歌ではない。
前の藤原義孝の歌とはまるで対極にあるような、技巧に技巧を凝らした恋の歌です。
まあ、一語一語見ていきますから、よーく読んでください。
《かくとだに》。
「かく」。
「このように」「こんなふうに」という意味。
「だに」。
大事な次の二つの意味を覚えておいてくださいませ。
① 最小限の一事を取りだして、強調する働きをする。
「せめて・・・だけでも」
② 軽い物をあげて言外に他の重いものを類推させる。
「・・・でさえ」「・・・だって」
ここでは①の意味にとって、
「こんなふうに、とだけでも」
つまりは
(自分が)こんなふうな状態になっていますよ、ということだけでも。
《えやはいぶきの さしもぐさ》。
「えやはいぶきの」。
これは「えやは言ふ」と「いぶき」の掛詞になっているんですな。
「えやは言ふ」――ちゃんと意味が取れますか?
「え」は「得」で can の意味だと思っていればいい。
あなたはもう、
「え・・・ず」が「・・・できない(=cannot)」 という意味になる
ことは知っていますね。
同じように
「え」が反語表現(ここでは「や」)を伴うと
「・・・できようか、(いやできない)」
という意味になります。
(「や」は係助詞ですから「えやは言ふ」(この「言ふ」は連体形ですね)
よって「えやは言ふ」は
Can I tell?
言うことができようか、(いやけっして言えない)。
ということになります。
さて、この「言ふ」と掛詞になっているのが「いぶき」。
「いぶき」は地名です。
伊吹。
伊吹山というと、普通は古事記に、倭建命(ヤマトタケルノミコト)に冷たい氷雨を降らせて彼を苦しめ弱らせた、と書かれている美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境ににょっきり立っている伊吹山を思い出すのだが、この伊吹山はそれではなく、なんでも下野(栃木県)にある山であるらしい。
ともかくそこはお灸を据えるのに使う「も草」に使うヨモギの産地だったそうな。
(「さしもぐさ」はそのヨモギのことです。
まあ、ヨモギなんてどこでもとれそうな気がしますが・・・)
というわけで、
「いぶき」とくれば「さしもぐさ」
と続くわけですが、(こういうのを「縁語」と言いますね)
実は、ここまでが、次の「さしもしらじな」を引っ張り出すための序詞です。
さて、そのようにして引っ張り出された
《さしも》。
意味は
「あのように」、「そのように」。
あるいは
「このようであるとは」「そのようであるとは」。
《しらじな》。
「知ら・じ・な」。
知らないだろうなあ。
《もゆる思ひを》。
「思ひ」の「ひ」は「思ひ」と「火」の掛詞です。
「もゆる思ひ」と来れば、そうなっているに決まっている。
というわけで、この後半は倒置法ですな。
訳せば
私の中の恋の火が、こんなにももえているとは、あなたは知らないでしょうね
もちろん、「もゆる」も「さしもぐさ」の縁語です。
・・・と、まあ、この歌、ありとあらゆる作歌技法を三十一文字の中に詰め込んでいる。
ともかく、めちゃくちゃめんどくさい歌ですな、これ。
まあ、とりあえず、一首の意味を訳してみましょう。
こんなにも、あなたにこがれていると、
せめてそれだけでも、あなたにお伝えしたいのに
それが、どうして口にできましょう・・・。
そんなわたしは、伊吹山のさしもぐさ。
思ひはただ内にこもって燃えるだけ。
そんな思ひをあなたは知らない。
こんなにも熱くもえているのに あなたからその火が見えないのですもの。
この歌、胸にもえる恋の思いはどんな言葉を尽くしても、言葉には尽くしきれないということを、言葉の技巧を尽くして歌にするというなんともアクロバティックなことをやっている。
それは、
「君がため惜しからざりし命さへ」
という前の歌の直情的な詠みぶりとはまるで違うものです。
けれども、だからダメな歌、とは思わない。
というか、何を隠そう、実は、これ
my most favorite verse in Hyakunin-Isshu.
なんですな。
なぜ、と言われても困るんですが、好きなものはしようがない。
たぶん、
かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ
という、この持って回った言い方が好きなんですな。
名歌である!
と私は思っております。