あらざらむ この世のほかの 思ひ出に

 

                                今ひとたびの あふこともがな

 

                                和泉式部

 

和泉式部(いづみしきぶ)。
この人、一条天皇の中宮・彰子(しょうし)の女房である。
彰子は道長の娘で、和泉式部は、これから出てくる紫式部や赤染衛門とは同僚である。

(清少納言は、彰子のライバル中宮・定子の女房でしたね。)

さて、この人の最初の夫、橘道貞(たちばなのみちさだ)が和泉守だったので、和泉式部と呼ばれていたらしい。

けれども、彼女は夫のある身で、年下の為尊(ためたか)親王に求愛され、それを受け入れた彼女は夫と別れることになる。
しかし、二年後、その親王は24歳の若さで亡くなる。

 

彼女には『和泉式部日記』があって、それは、その一年後、今度はその為尊親王の弟の帥宮敦道(そちのみや・あつみち)親王から歌が届くところから始まる。
これは、言ってしまえば、亡くなった昔の恋人の弟からメールが届いて、そこから新たな恋が始まる、といったみたいなもので、その後のいきさつは、あなたの大好きな恋愛ドラマの平安版だと思えばよろしい。
興味があるなら、頑張って読んでごらんなさい。
『蜻蛉日記』よりはずいぶんおもしろい。(と私は思う)。
日記は、十か月間の彼らのさまざまなやり取りを描いた後、彼女がその邸に住むことになり、もともと邸にいた親王の北の方は、その屈辱に耐えず邸を去っていくところで終わっている。
ところが、その四年後、敦道親王も27歳で亡くなってしまう。

世間では、彼らの恋愛は、恋多き年上の女性に、世間知らずの天皇のお坊ちゃんがのぼせあがっただけのものだと思われていた。

たぶん、「日記」は敦道親王の死後に書かれたものであろうが、それは、この誰にも祝福されることのなかった恋愛の、その「真実」を書き残しておくためのものであったのであろう。
それが「戯れの恋」などではけっしてなかったことの証しとして。

 

と、まあ、それはさて、さっさと歌に取り掛からねば。

 

詞書に曰く、

 

心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける

(体調が悪かったころ、人のところへおくった歌)

 

この歌は、『和泉式部日記』には出てこない。
違う場面でちがう男に向かって書かれた歌ですね。

 

「あらざらむ」。
「いなくなってしまうかもしれない」=「死んでしまうかもしれない」

 

「この世のほか」。
つまり「あの世」です。

 

「いまひとたびの」。
once again ですね。

 

「あうこともがな」。
「もがな」。 もう大丈夫ですね、「・・・があったらなあ」「・・・だったらなあ」。
よって、「逢うことができたらなあ」つまり「お逢いしたい」ということです。

 

今は病気が重く、死んであの世に行くばかりの私です。
そんな私が、この世に自分が生きていたということの
そのもっとも痛切な証しはあなたとの恋でした。
その生きた証しを、あの世で思い出すために
もう一度、
もう一度、
せめてもう一度、私にお逢いください
このままあなたにお逢できずに死ぬなんて私にはできない。

 

 

彼女の同僚、紫式部が『紫式部日記』の中で、彼女の歌のことをこんなふうに書いています。

歌は、いとをかしきこと。
(彼女の歌はたいそういいものですよ。)

ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみ添へ侍り。
(昔の歌の知識や、歌の理論なんかはよく知らず、ほんとうの歌人というふうには見えないのですが、さっと即興で詠んだ歌の中にも、必ずはっと思わせるような一句が詠み添えてあります。)

 

それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌も詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢには侍るかし。
(それほど歌が上手であるにもかかわらず、ほかの人が詠んだ歌を批評しているのを聞くと、いやはや、この人、それほど歌のことはわかっておらず、ただただ歌が自然に口をついて出てくるような人なのだと思われる歌でございます。)

恥づかしげの歌詠みやとはおぼえ侍らず。
(こっちが恥ずかしくなるほどのすばらしい歌人だなあとは思いません。)

紫式部という人は、だいたい同時代の女性に厳しいのですが、和泉式部の歌についての批評は、 まあ最後の「恥づかしげの歌詠みやとはおぼえ侍らず」という部分を除けば、当たっているように思えます。

たとえば、この歌にしても、今までの歌で、うるさいほどに解説してきた序詞とか掛詞(これが紫式部のいう「ものおぼえ、歌のことはり」といったことでしょう)などといった、そんな面倒くさいものは何にもない。
いきなり
「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」
なんて、びっくりするような言葉から始まる。

 

彼女は口をついて出る言葉がそのまま歌になるようだという、紫式部の評言はあたっているように思えます。
技法・技巧などというものをはるかに超えて、思いがそのまま歌になる。
しかも、その歌うところは全くありきたりではない。

この歌だけではない。
「和泉式部集」を読んでいるとそんな気がする。

彼女の歌はこの時代の歌人たちとはまったく違って見える。
歌の本質そのものがまるでちがうのだ。
天才、というのはやさしいが、心の中の思いをひとつかみにことばに変えて口にする力はタダモノではないと思えてくる。

 

 死んで行く あの世で生きる 思い出に

   せめて も一度 お逢いください