夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
清少納言
清少納言(せいしょうなごん)。
言うまでもなく、『枕草子』を書いた人です。
この歌が詠まれた話も「枕草子」の中に出てくる。
それを書いておきましょう。
藤原行成がある夜、中宮定子の日常の居所である職の御曹司にやって来て、物語をしていたが、途中で明日は宮中の物忌みだからと言って、宮中に参上なさった。
行成という人は、前にも書いたけれど、字(行書)が上手で、「三蹟」の一人です。
あの
「かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ」
の実方さんに烏帽子を投げ捨てられた人で、
「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」
と歌った藤原義孝さんの息子です。
さて、その行成さんが翌朝、
「昨夜はもっとお話をしていたかったのに、鶏の声にせきたてられて」
と書いて寄こしたので、
「夜遅くに鳴く鳥の声は、孟嘗君(もうしょうくん)が鳴かせたという函谷関の鶏の声ですか」
と返事をしたら、すぐに
「いやいや、孟嘗君がやっと逃れ出た函谷関ではなくて、恋人に逢う逢坂の関のことですよ」
と言ってよこしたので、この歌をおくったという。
ではことばを見ていきましょう。
「夜をこめて」。
実は、これが一筋縄でいかないんですな。
愛ちゃんの国語便覧の訳を見ると、
「夜の明けないうちに」。
手元の高校生用の古語辞書の、この歌の訳を見ると
「夜がまだ深いうちに」。
と書いてある。
というわけで、まあ、そんな意味なんでしょうが、なんでそういう意味になるのかよくわからない。
で、小学館日本古典文学全集の「枕草子」の注釈を見ると、歌の訳は
「夜のまだ明けないうちに」
と書いてあって、その頭注には、わざわざ
夜を明け方の部分にまで籠らせて→夜おそく、夜のまだ明けきらぬうち」の意。
と書いてある。
うーん。
あなたこれで、納得いきます?
というか、私には、この頭注の言っている
「夜を明け方の部分にまで籠らせて」
という意味が、何のことだかまったくわからないんです。
あのですね、「こめて」はもちろん下二段活用「こむ」の連用形に「て」が付いたものなんですが、辞書で「こむ」を引くと、
- 中に入れる。こもらせる。とじこめる。
- 包みかくす。秘密にする。
とある。
あのですね、思うんですが、実は、これは一般に言われているような「夜が明けないうちに」なんて意味ではないんじゃないかなあ。
これはですね、「夜がまだ明けないうちに」なんて意味ではないんです。
これは、
「夜であることを内に隠して」
あるいは
「夜であることを秘密にして」
ととるのが、正しいんです。
つまり
「夜であることをごまかして」
という意味です。
まあ、これ、飲んだくれのジイサマが、例によって、休日の昼間から、シメサバを肴に酒を飲みながら書いているんですもの、あんまりあてにできない、とあなたは思うかもしれないけれど、でも、これ間違いなくそうです!
絶対、正しい!
世の注釈書はまちがっている!!
(と、酔払った勢いで断言しておこう)
「鳥の空音」。
これは、「史記」という本の中に出てくるエピソードです。
中国の戦国時代、斉の国の公族である孟嘗君が、秦に使いした時、捕らわれそうになって、急いで逃げ出し、国境の函谷関までやってきた。
けれども関は鶏の声が聞こえないと開かないことになっている。
うーん、コマッタ、どうしよう、と思っている時、彼の食客に物真似上手がいて、鶏の鳴き真似をしてかろうじて、関を越えた、という故事から来ているんですな。
「空音」は「うその鳴き声」ですね。
「はかる」。
「だます」という意味です。
「よに」。
下に打ち消しの語を伴って、
けっして~ない。全然~ない。断じて~しない。
というわけで、歌全体を訳してみれば、
まだ夜であることを隠して、
鶏の鳴き真似なんかして
関所の門を開けさせようとしても
それは、函谷関の関守はだまされるかもしれないけれど、
男と女が逢う逢坂の関の関守はだまされませんよ。
私に逢おうなんて、あなたがお思いになっても、とてもとても。
あのですね、これ、同じ男女の間の歌のやり取りではあっても、今までの恋の歌とまるっきり違うのわかります?
だって「逢坂の関」なんて、意味ありげな、きわどいことを言いながら、男の方にも、女の方にも、全然その気がないんですもん。
どっちもその気がないことを知りながら、あたかも相手が自分に気があるみたいに歌をおくり合って、楽しんでいる。
こちらが冗談で言っていることを、ちゃんと冗談でとってくれ、しかも、それにしかるべき返事をしてくれると、会話は弾みます。
清少納言が、宮中の男たちに人気があったのも、なんとなくわかる。
私だって、職場の同僚なら、紫式部よりは清少納言の方が付き合いやすい気がしますもん。
嘘ついて 開けようたって ダメですよ
男女逢ふ坂 関は堅いの