今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを

 

  人づてならで いふよしもがな

 

     左京大夫道雅

 

左京大夫道雅(さきやうのだいふ・みちまさ)。

この人のお父さんは、道長のライバル、無辺世界に矢を飛ばした藤原伊周です。

 

さて、歌。

「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを」。
「思ひ絶えなむ」は「なむ」の識別ができれば、意味が見えてきますね。
「思ひ絶え」は下二段動詞の連用形ですから、いわゆる「連語の《なむ》」ですね。

これは《完了の助動詞「ぬ」の未然形+推量の助動詞「む」》でしたね。

この場合、「ぬ」は強意であって、「む」の意味を強めているのでした。
ここでの「む」は意志の意味なので、
「・・・してしまおう」
あるいは
「きっと・・・しよう」
です。

というわけで、ここまでは

「今はただ、あなたへの思いをあきらめてしまおう、ということだけでも」

という意味になります。

 

「人づてならで」。

「人づてではなく」、つまり「自分の口から直に」。

 

「いふよしもがな」。

「よしもがな」は
《なにしおはば逢坂山のさねかづら》
の歌でも出てきましたね。

「方法があればなあ」でした。

つまり

「言うてだてがあればなあ」

です。

 

 

今はもう、
あなたとのことは、きっぱりあきらめてしまいます。
けれど、
そのことを人づてであなたに伝えたくはないのです。
そうではなく、
せめて、最後に一目あなたにお逢いして、
そのことをお伝えしたいのです。

 

この歌には、技巧も修辞も何もない。
しかし、そうであるがゆえに、この歌は恋のさなかにある者の、
悶々たる思いをそのまま歌って、読む者の心に残る。

かつて、私の友人の一人が、酒を飲んでいた時、いきなりこの歌を口ずさんで、

「あんた、百人一首の中で一番いい歌て、これやろ!」

と言ったことがありました。
何が彼をしてそう言わしめたのか、その感慨の個人的理由はわかりません。
けれども、彼がそう断言した気持ちはわかる。

この歌にももちろん詞書(それは後で書くつもりですが)があるのですが、たとえ仮に詞書などなくても、この歌がわかるのは、そこに恋愛における、ある普遍の心情が歌われているからでしょう。
愛し合った男と女が別れる時、相手との仲をほんとうにあきらめたのなら、黙って何も言わずに、ただ連絡を絶てば、そのことは相手に伝わります。
伝わるけれど、そんな理屈通りに進むくらいなら、この世に恋の悩みなんてものはない。

「あなたのことはもうあきらめます」
と直接会ってそう告げたいと思うのは、二人のうちで最初に恋から冷めた方ではない。
そうではなくて、相手から「もう会わない」あるいは「もう会えない」と言われた方です。
「あなたのことはあきらめた」
と直接会ってそう告げたいと思うのは、もちろん心の底では相手のことをあきらめてはいないからなのですが、「あきらめた」と告げることよりほかに、相手にかけることばが許されていない状況の中で、そう言うしかないのです。
しかし、それさえもはたして許されるのかどうか。
そこにこの歌の絶望があり、涙がある。

 

この歌、何も詞書などなくても、そのうたわれた心情はわかる、と前に書いた。
けれども、恋というものが男女誰にでも生じる普遍的なものでありながら、けれどもその一つ一つは、みなそれぞれに特殊です。
では、この左京太夫道雅の恋はどんなものだったか、その詞書を見てみましょう。

 

伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に忍びて通ひける事をおほやけもきこしめして、守り女(め)などつけさせたまひて、忍びにも通はずなりにければよみ侍りける

 

しかし、これだけでは、あまりよく状況はわからないかもしれないので、この恋愛のことが書かれている「栄華物語」(赤染衛門が書いた)の記事も加えて書いてみましょう。

伊勢の斎宮(さいぐう)というのは、伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王です。
ここでは三条天皇の第一皇女・当子(まさこ)内親王という方なのですが、その方が、美しく成長して伊勢から京へ戻って来られた。
もちろん、天皇も皇后も帰って来られた皇女を一方ならずいつくしみなされていたのだが、その人のところへ、いつしか当時三位中将だった道雅がひそかに通いはじめることとなった。
ところが、それはやがて天皇(おほやけ)の知るところとなる。
三条天皇は大いに怒り、恋の仲立ちをしていた女房をやめさせ、お目付け役の女房(守り女)をつけた。

その結果、もはや訪れることもかなわぬこととなって(忍びにも通わずなりにければ)鬱鬱、悶々たる日々を送る道雅はこの歌を詠む。
そして、一方の当子内親王は、美しい夕暮、自ら髪をおろし尼になってしまわれた・・・
というのが二人の恋のあらましである。

うーん。
悲恋ですなあ。

彼は相手にふられたのではない。
そうではなくて、無理やり仲を裂かれたのです。

しかも、彼は、伊勢の斎宮としてきよらかな生活をおくってきた直後に燃えあがった若い皇女の自分への恋心のまっすぐな思いもわかっている。
だからこそ、天皇というとてつもなく大きなものに、無理やり仲を裂かれた男の絶望はいっそう深かったろうと思う。

彼のもう一度逢いたい、直接言葉を交わしたい、という思いが

人づてならでいふよしもがな
(その方法があればいいのに!)

ということばに詰まっていますね。

それは、同じことばを使っていても、あの
 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
という歌とは、くらべものにならないほど深い真情から出たことばだということがわかる。

二・三句目の
思ひ絶えなむ とばかりを
という、句をまたがるようなことばづかいも、彼のあふれる思いがそのまま映されたもののように思える。

この歌、愛する女に対するいとおしさと、どこに向けていいのかわからぬ絶望に満ちた男のやりきれなさが、まさに三十一文字の中に凝縮されているような歌です。

これが「百人一首の中で一番の歌だ」という私の友人のことば、あながち間違いではないような気がしますね。

 

 

年譜によれば、道雅は62歳まで生きた、とある。
彼は、この恋で天皇の逆鱗に触れた結果、左京太夫という実権も何もない閑職にとどまり一生を終えらしいが、彼はこの恋を後悔していたのでしょうか。
後悔があったとすれば、当子内親王にかなしい思いをさせたという、その一点だったと思いたいのですが。

 

いまはもう あきらめますの ひとことを

 

  ひとづてでなく おつたえできたら